6月24日


 六つ頭の怪物スキュレーと大渦カリュブディスと、それら二つの難所の内、キルケーは前者の方を勧める。


ἀλλὰ μάλα Σκύλλης σκοπέλῳ πεπλημένος ὦκα
ν
ῆα παρὲξ ἐλάαν, ἐπεὶ ἦ πολὺ φέρτερόν ἐστιν (12-108,9)

それよりはむしろスキュレーの岩に近づき素早く

船を進めて通り抜けなさい、それがはるかに良いでしょうから


ἓξ ἑτάρους ἐν νηὶ ποθήμεναι ἢ ἅμα πάντας. (12-110)

六人の仲間を悼む方が、一挙に全員を(悼む)よりは


究極の選択だ。戦闘でも航海でもこういう局面は起こりうる。

オデュッセウスは両方の危険を切り抜ける方法はないかと問うが、キルケーに


σχέτλιε, καὶ δὴ αὖ τοι πολεμήια ἔργα μέμηλε
κα
ὶ πόνος: οὐδὲ θεοῖσιν ὑπείξεαι ἀθανάτοισιν; (12-116,7)

手に負えない人だ、あなたはまたもや戦闘ばかり考えている

それと苦労と(ばかり)、神々にも譲らないつもりでいるとは


とたしなめられる。「手に負えない人だ」と訳したσχέτλιεは、相手の強情ぶりに呆れたときに使われる呼びかけだ。非難や嘆息の意味と共に、ここでは皮肉やさらには若干親愛のニュアンスも感じられるようだ。


σχέτλιεのような非難や嘆息の意味を込めた呼びかけの言葉は他にもある。

νήπιε(愚かな奴)はよく出てくる。

νήπιε μή μοι ἄποινα πιφαύσκεο μηδ᾽ ἀγόρευε: (『イーリアス』21-99)

愚かな奴、償い代のことなど述べ立てたりするな

 これはアキレウスの言葉だ。ヘクトールの、自分の遺体を償い代と引き替えにトロイア側に返還してくれとの懇願に対する情け容赦ない返答だ。

 δύστηνε(不幸なる者よ)もある。これは非難より嘆息の意味が強い。『オデュッセイアー』で既に一度引用した詩行にもあった。冥界でオデュッセウスを見かけた予言者テイレシアースの言葉だ。

τίπτ᾽ αὖτ᾽, ὦ δύστηνε, λιπὼν φάος ἠελίοιο (11-93)

一体何故、不幸なる者よ、太陽の光を去って(やってきたのか)

 これらの呼びかけは叙事詩の中にある演劇的要素の最たるものだ。