6月6日


母親は答える、死んだのは病の故でもなく、アルテミスの矢によってでもない、


ἀλλά με σός τε πόθος σά τε μήδεα, φαίδιμ᾽ Ὀδυσσεῦ,
σή τ
᾽ ἀγανοφροσύνη μελιηδέα θυμὸν ἀπηύρα. (11-202,3)

そうではなくて、オデュッセウスよ、あなたを待ち焦がれる思い

あなたの明知、あなたの思いやり(をしのぶ思い)が甘美な命を奪ったのです


 σός、σά、σήと「あなた」を三回繰り返している。この言葉は、息子オデュッセウスの胸に定めし辛く響いたことだろう。

 オデュッセウスは母親を抱こうとするが、影か夢にも似てつかめない。母親は言う。


ἀλλ᾽ αὕτη δίκη ἐστὶ βροτῶν, ὅτε τίς κε θάνῃσιν:
ο
ὐ γὰρ ἔτι σάρκας τε καὶ ὀστέα ἶνες ἔχουσιν, (11-218,9)

人間はひとたび死ねばこうなるのが定めなのです

というのも、もはや筋は肉も骨も繋ぎとめていないのですから

 

 「筋が肉や骨を繋ぎとめる」とは面白い。人間の身体は筋が基本だと捉えているのだろうか。そういえば壺絵にある戦士などの肢体は、いかにも筋張っているように見える。


 昨日、『オデュッセイアー』における「認めるγιγνώσκω」は「表面に現れない本来的なものを見いだす」ということの寓意ではないかと言った。がしかし、どうもそれは近代的理屈に過ぎるかも知れず、そのような捉え方に限定しない方がいいのではないかと思えてきた。この詩編の「認めるγιγνώσκω」はもっと素朴で原初的なものであり、もっと緩く開かれたものであるようだ。