6月5日


テイレシアースの託宣が終わると、オデュッセウスは母親のことを聞く。さっき近くに来たのに、黙って座り、息子の顔を見ることもなく、話しかけてくることもなかったからだ。


εἰπέ, ἄναξ, πῶς κέν με ἀναγνοίη τὸν ἐόντα; (11-144)

師よ、教えて下さい、どうしたら彼女が(息子の)私をそれと認めてくれるかを


主旋律のようにこの詩編で何度も出てくる「認めるἀναγνοίη」だ。

この問いに対して、テイレシアースは「造作もないこと」といってすぐに答える。「生血を飲ませなさい」と。生血には亡者の記憶を蘇らせる力が備わっているのだ。教えの通りに飲ませると、すぐさま「認めたἔγνω」(11-153)のだった。

オデュッセウスは母親に尋ねる、どのようにして死を迎えたのかと。


ἦ δολιχὴ νοῦσος, ἦ Ἄρτεμις ἰοχέαιρα
ο
ἷς ἀγανοῖς βελέεσσιν ἐποιχομένη κατέπεφνεν; (11-172,3)

長い病の故か、それとも矢を注ぐアルテミスが

その柔らかな弓矢でもって射て命を奪われたのでしょうか


突然のしかし安らかな死、女神アルテミスはそれをもたらしてくれる。そのことは既に一度出て来たが、ここでははっきりと「長い病」と対比されてている。母親の死を知ったオデュッセウスは、せめてアルテミスによる死であってほしいと願ったことだろう。


上で取り上げた「認めたἔγνω<γιγνώσκω」についてだが、そのフランス語訳には普通reconnaîtreが使われている。

今日たまたまプルーストを読んでいたら、こんな一節に出くわした。真の芸術家の作品には、自らが意識しない、すべての作品に共通の、作者ならではの個性、語調がある、という確信を述べた断章の中の一節だ。「それは彼が全力で新たなものであろうとした時だ、その時こそ人は表面的な相違の下に深い類似を認めるreconnaîtreのだ」(「囚われの女」)

『オデュッセイアー』の中の「認めるγιγνώσκω」と、プルーストの芸術論における「認めるreconnaître」は文脈が全く違う。しかしひょっとしたら何か通じるものがないだろうか。『オデュッセイアー』におけるその人と「認めるγιγνώσκω」ことには、プルースト的な意味でのreconnaître、即ち、表面に現れない本来的なものを見いだすということが寓意されているのではないだろうか。