5月29日
オデュッセウス達はキルケーの饗応を受け安楽に暮らすが、一年たった時望郷の念に耐えられなくなる。そこで、オデュッセウスがキルケーに帰郷を嘆願すると、キルケーは承諾する。但し、そのためには冥界に下って予言者テイレシアースの託宣を受ける必要があると言う。
ψυχῇ χρησομένους Θηβαίου Τειρεσίαο,
μάντηος ἀλαοῦ, τοῦ τε φρένες ἔμπεδοί εἰσι:(10-492,3)
テーバイのテイレシアースの魂魄に託宣を受けに(行く必要があります)
(彼は)盲目の予言者で、その意識はしっかりとしています
なぜかというと、
τῷ καὶ τεθνηῶτι νόον πόρε Περσεφόνεια,
οἴῳ πεπνῦσθαι, τοὶ δὲ σκιαὶ ἀίσσουσιν. (10-494,5)
彼には死んでも(冥王の妃)ペルセポネイアーが知力を授け
一人だけ分別を持っているのです、他の影達は飛び交っているだけであるにもかわらず
ここでオデュッセウスの冥界行きが予告される。「他の影達は飛び交っているτοὶ δὲ σκιαὶ ἀίσσουσιν」には凄みがある。
さすがのオデュッセウスも悲嘆に暮れる。しかし悲嘆に飽きると行く気になって「道案内は」と訊ねる。それに対してキルケーは、心配はいらない、北風が運んでくれると答え、冥界の様子を語りはじめる。
「そこはアケローン河に向けて “火焔の河Πυριφλεγέθων” と “憎悪の河Στυγὸς” の支流である “悲嘆の河Κώκυτός” とが流れ込むところです」(10-513,4)
この詩行を見ると、「火焔」とか「憎悪」とか「悲嘆」とか、ホメーロスにおける冥界とはすなわち地獄だ。死後神に列せられるケースもないではないが、それは例外であってその他は皆この冥界に送られる。天国はなかったようだ。
上記引用で、冥界の亡者達の有り様について「影達が飛び交っている」と訳したが、我々が持っている亡者のイメージからすると「飛び交っている」はどうも違和感がある。「漂っている」とか「彷徨っている」とかしたいところだ。しかし原語のἀίσσουσιν [āissūsi] の基本語義は「突進する」であり(そのニュアンスは切迫した語調からもうかがえる)、放たれた槍や獲物に襲いかかる禿鷹の動きなどの描写にも使われている。日本の亡者とホメーロスの亡者ではスピードに違いがあるらしい。