5月11日
昨日のΟὖτιςは「Οὖ(否定詞の)ない」+「τις誰」だから直訳すれば「誰も~ない」となる。そのまま「誰も~ない」というわけにもいかぬし、他にうまい訳語が見つけられなかったので「誰もおらぬ」としたが、これは松平訳を拝借したものだ。呉訳では「駄礼毛志内」と苦心して名前らしくしている。しかし、「おらぬ」にせよ「しない」にせよ限定しすぎのきらいが残る。「Οὖない」は無限定の否定だろうから。
巨人が酔っ払って寝込んだところを見計らって、オデュッセウス達は例の丸太を取り出し、巨人の一つ目に突き刺す。それは火で熱してある。
ここで二つの比喩が出てくる。いずれもが生活に密着した技能生業に関わる比喩だ。
まず、オデュッセウスは言う。「突き刺した丸太の上から私はのしかかって、
δίνεον, ὡς ὅτε τις τρυπῷ δόρυ νήιον ἀνὴρ (9-384)
捻り回したのです、あたかも人が船木の穴を穿つときのように
更に続けて、
τρυπάνῳ, οἱ δέ τ᾽ ἔνερθεν ὑποσσείουσιν ἱμάντι
ἁψάμενοι ἑκάτερθε, τὸ δὲ τρέχει ἐμμενὲς αἰεί. (9-385,6)
錐でもって(穿つときのように)、他の者達は下で革紐で回転させる
両側から取り付いて、錐はずんずんと刺さっていく
そのように皆で丸太を握って捻り回したのです」と。
ここに出てくる「革紐で回転させるὑποσσείουσιν ἱμάντι」は紐錐といわれる技のことだろう。回転軸に両方向の紐を巻き付け、それを交互に引くことによって回転運動を生み出す。これは古来火起こしなどにも使われた技術だ。
巨人の目は血だらけになり、
ὡς δ᾽ ὅτ᾽ ἀνὴρ χαλκεὺς πέλεκυν μέγαν ἠὲ σκέπαρνον
εἰν ὕδατι ψυχρῷ βάπτῃ μεγάλα ἰάχοντα (9-391,2)
あたかも鍛冶屋の男が大斧か手斧を
冷たい水の中に投げ入れ、それが凄まじく音を立てる時のように
φαρμάσσων: τὸ γὰρ αὖτε σιδήρου γε κράτος ἐστίν
ὣς τοῦ σίζ᾽ ὀφθαλμὸς ἐλαϊνέῳ περὶ μοχλῷ. (9-393,4)
焼きを入れようと(投げ入れ)、それによって鉄は強度を増すのだが
その如くにそいつの目はオリーブの丸太のまわりでジュージュー音を立てたのです
σίζ᾽(ε)(ジュージュー音を立てた)もオノマトペーに違いなく、この語自体喚起力に富んでいるのだが、鍛冶屋の「焼き」の比喩はそれをいっそう鮮やかなものにしている。