4月8日
昨日引用した一節でひとつ記し漏らしたことがある。216行目の「胃の腑以上に厚顔無恥なもの(はない)ἐπὶ γαστέρι κύντερον ἄλλο」にある「厚顔無恥κύντερον」だ。この語は「κύων犬」から派生している。この詩編では後の方の名場面で、人の良き伴たる犬の姿が描かれているから、『オデュッセイアー』の詩人は愛犬家であったに違いないと思い込んでいたのだが、どうも必ずしもそうではないようだ。犬の高貴な面と卑しい面、両面をこの詩人は見ていたようだ。
宴が終わり他の長老達が帰り、オデュッセウスと王と妃が残ったとき、先ず妃が訊ねる。
τίς πόθεν εἰς ἀνδρῶν; τίς τοι τάδε εἵματ᾽ ἔδωκεν; (7-238)
あなたは一体誰でどこからいらしたのですか、その着物は誰が差し上げたのですか
「誰τίς」、「どこからπόθεν」の問いがここでも出てくる。そして「着物」に言及しているのは、このすぐ前で彼女が「(オデュッセウスの)上衣と肌着を見て自分が侍女達と一緒に作ったものと認めた」ことを受けている。女性なら真っ先に気付くのだろう。
この問いに対してオデュッセウスは、カリュプソーの島に漂着してからここに来るまでのことを五十行以上にわたって語る。カリュプソーの島に漂着する際のことは新事実だが、その後のことはほぼ第五歌、第六歌で語られたことの要約だ。
このような繰り返しは詩編に多くある。いわば重複だから冗長とか無駄とかの誹りを受けそうだが、実際その感はあまりない。聴き手や読み手がこれまでのことを再認識する効果もあるのかも知れない。これは口承詩の融通無碍な点なのだろう。
今、カリュプソーの島に漂着後のことはほぼ第五歌、第六歌で語られたことの要約だと言った。一点違いがある。
島滞在八年目、ようやくカリュプソーが送り出してくれることになったことについて、オデュッセウスはこう言う。
καὶ τότε δή μ᾽ ἐκέλευσεν ἐποτρύνουσα νέεσθαι
Ζηνὸς ὑπ᾽ ἀγγελίης, ἢ καὶ νόος ἐτράπετ᾽ αὐτῆς. (7―262,3)
その時私を促して出帆するようにと言いました
ゼウスのお達しからか、彼女自身の心変わりからか
第五歌ではゼウスのお達しであったことが明確に語られていた。しかしそれは詩編の登場人物たるオデュッセウスの知るところではなかったということだろう。詩人の目とオデュッセウスの目は異なる。詩編が立体的に感じられてくる。