3月31日
昨日までのテーマにもう少しつけ加えよう。
「経験が重いからといってそれがそのまま人に伝わる訳ではない」、そのことは事実だ。プルーストも作品の中でこんなことを言っている。「こうした現実は、私たちの思考によって再創造されないかぎり、私たちにとって存在しない。さもなければ、壮大な戦闘に巻き込まれた人間は皆偉大な叙事詩人になるはずであろうから」と。
しかし同時に重い経験なしで、そのことを詩にできるかどうかは疑問だ。仮にできたとしても心に訴えるものになることはなかろう。そこには仮想の経験から来る絵空事の弱さがあって響かないのだ。
ただそれは詩人自らの経験ということに限定する必要はない。身近に見聞きすることも含めた経験だ。さもなくばホメーロスは戦士であると同時に、船乗りであり、大工であり、牧人であり、乳母であり、妻であり、娘であり、子供であることが必要とされるだろうから。肝心なことはそういうことが経験される時代環境に生き、詩人の目や耳、身体でそれを感受することなのだろう。
第六巻末尾まで来た。
最初の四巻はテーレマコスの物語だったが、第五巻からオデュッセウスが主人公として前面に登場してきた。そして、第五巻は仙女カリュプソーとの物語、第六巻は王女ナウシカアーとの物語だった。
この第五巻、第六巻を読んでいて改めて気づいたのは、両巻とも冒頭と末尾の部分にアテーネーが出てくることだ。まさしく舞台回しの役を演じている。それも以下の通り、常にオデュッセウスの守護神としてだ。
第五巻冒頭
「アテーネー女神はオデュッセウスの多大の苦難を思って他の神々に語った、彼が仙女の館にまだ留まっていることを案じてのことだ」(5-5,6)
同末尾
「(アテーネーはオデュッセウスの)瞼を閉じて睡りを両眼の上に注いだ、彼の難儀の疲れが少しでも速くとれるようにと」(5-492,493)
第六巻冒頭
「そのように忍耐強く尊いオデュッセウスはそこで眠っていた、眠気と疲労にとらわれて。一方アテーネーはパイエーケース人達の町へと出向いていった」(6-1~3)
そして第六巻末尾はこうだった。
「このように(オデュッセウスが)祈って言うとパラス・アテーネーは聞いた。しかし彼自身の前には現れなかった、父の兄弟神を憚ったのだ、この兄弟神は(オデュッセウスに)酷く怒っていたので」(6-328~331)
こうして見ると、アテーネーはオデュッセウスをよほど気に入っていたのだろう。
神それぞれに贔屓の人間がいたようではあるが、これほど贔屓の度合いの激しい例はない。そのことは詩編の登場人物も感じていたらしく、こんな詩行がある。徒走競技でオデュッセウスに逆転され二位にあまんじたアイアースのことばだ。
ὢ πόποι ἦ μ᾽ ἔβλαψε θεὰ πόδας, ἣ τὸ πάρος περ
μήτηρ ὣς Ὀδυσῆϊ παρίσταται ἠδ᾽ ἐπαρήγει. (『イーリアス』23-782,3)
なんたることだ、女神(アテーネー)が私の足の邪魔をしたのだ、この女神は前から
オデュッセウスに母親のように寄り添い加勢するのだ
あるときは母親のように、またあるときは同志のようにだ。そこには愛情のみならず信頼さえ感じられる。この「オデュッセウスとアテーネーの関係」も興味深いテーマだ。