3月30日
昨日の問題をもう一度考えてみよう。
ホメーロスの詩句「叫べば丁度その声が聞こえるくらいの距離ὅσσον τε γέγωνε βοήσας」と我々の日常語「声の届く距離」、この対比において意味上は似ているにもかかわらず、前者は「実際にそのように叫んだ経験と記憶が生きている」ように感じられ、後者はそうではないのはなぜか。
そこには二つの要素が介在しているのではないか。一つは経験、もう一つは表現だ。
先ず経験だが、声を届かせるという経験の重みにおいて、ホメーロス世界と我々の世界では雲泥の差がある。ホメーロス時代の通信手段の基本は声を出すこと、叫ぶことだった。現代では実際に叫ぶこと自体稀だ。隣の部屋にいる子供にメールで「ゴハンヨ」と知らせる例さえある時代だ。
しかし経験が重いからといってそれがそのまま人に伝わる訳ではない。三千年の距離があればなおさらだ。しかるべき表現が必要だ。そこで詩人の登場だ。
τόσσον ἀπὸ πτόλιος, ὅσσον τε γέγωνε βοήσας. (6-294)
町からは、叫んで丁度その声が聞こえるくらい、そのくらいの距離です
この詩行が経験の重みを感じさせる力を秘めている。意味、韻律、音調、それらが一体となってその力を生み出しているのだろう。それを分析的に解明することは至難だ。ただその一端はγέγωνε βοήσας [gegône boêsâs](叫んでその声が聞こえる、より直訳すれば、叫んで声を聞かしめる)の音調にうかがうことができそうだ。声を限りの叫びが響いているようであるから。
オデュッセウスはナウシカアーと別れて一人になると、アテーネーに神助を祈願する。アテーネーは聞き入れるのだが、
αὐτῷ δ᾽ οὔ πω φαίνετ᾽ ἐναντίη: αἴδετο γάρ ῥα
πατροκασίγνητον: ὁ δ᾽ ἐπιζαφελῶς μενέαινεν (6-329,30)
彼(オデュッセウス)自身の前にまだ現れなかった、憚ったのだ
父の兄弟神を、この兄弟神は(オデュッセウスに)酷く怒っていたので
父とはゼウス、兄弟神とは言うまでもなくポセイダーオーンだ。あまり怖いもののないように見えるアテーネーだが、叔父たる神には遠慮することがあるようだ。
あるいはこうかもしれない。この地のパイエーケース人達は典型的な海の民であるから海神ポセイダーオーンは守り神に違いない。先のナウシカアーの町の説明でも、
ἔνθα δέ τέ σφ᾽ ἀγορὴ καλὸν Ποσιδήιον ἀμφίς, (2-266)
その辺りポセイダーオーンの社の傍らに彼らの美しい広場があります
と言っていた。土地の神に敬意を払ったということかも知れない。