3月26日


ナウシカアーはオデュッセウスに「原っぱや畑のところでは私が案内しますので馬や車と一緒に行きましょう」といった後、こう続ける。


αὐτὰρ ἐπὴν πόλιος ἐπιβήομεν, ἣν πέρι πύργος
ὑψηλός, καλὸς δὲ λιμὴν ἑκάτερθε πόληος, (6-262,3)

しかし町にさしかかったなら・・・そこには高い壁があり

町の両側には美しい港がある


そして町の様子や住民の生業の話が十行ぐらいにわたってなされる。そしてその後にまた十行ほど、町のよからぬ連中が一緒のところを見かけたら悪しき噂が立たぬとも限らないとの説明が入り、そこでようやく「町の手前で別れて留まっていてほしい」(289行以下)と告げる。

おそらくは、262行目の「しかし町にさしかかったなら」は289行目以下の「町の手前で別れて留まっていてほしい」につながるはずだったのだろう。αὐτὰρ ἐπὴν(しかしいったん~したなら)の普通の用法からはそう考えるのが自然だ。そうすると、その間の「町の様子」や「悪しき噂の心配」はどうして挿入されているのか。

後者の「悪しき噂の心配」の方は分かりやすい。αὐτὰρ ἐπὴνと結論を言いかけたものの、相手の気持ちを慮って先に理由や事情を説明した方がよいと思い直したものだろう。

前者はどうか。これはあまり語られるべき必然性がない。一種の叙事詩的脱線ではなかろうか。本筋の進行に関係ない挿話や描写は両詩編の随所にある。そういう叙事詩人の脱線がナウシカアーの語りの中に反映しているのではないかと思うのである。


この一節について、松平千秋の註を読んで思わず笑わされた。曰く、

「このように飛躍した話し方をW・Bスタンフォドは『女性特有の措辞法(female syntax)』と呼んだが、女性には少々失敬な評言かもしれない」

しかしスタンフォドの言は、後者の脱線についていえばかなり当たっているのではなかろうか。