3月16日
オデュッセウスはやっとのことで上陸できそうな場所を見つける。しかしそこは河口になっていて流れが接近の妨げになっている。そこで彼は河の神に助命を願う。不死の神々も嘆願者をおろそかにはなさらないはずです、
ἀλλ᾽ ἐλέαιρε, ἄναξ: ἱκέτης δέ τοι εὔχομαι εἶναι. (5-450)
神よ何卒お憐れみを、あなた様に私は嘆願者なのです(から)
と言って。
人間界、神々の世界を問わず「嘆願者ἱκέτηςは無下に扱ってはならない」との嘆願者保護の倫理があったようだ。ゼウスは「嘆願者の守り手ἱκετήσιος」だった。
上記はその倫理を踏まえた詩行だ。しかし可笑しいのは、嘆願者の方が「俺は嘆願者なんだぞ」といった口吻であることだ。原文ではその度合いが訳文以上に強く、εὔχομαι εἶναιの語句が使われている。εὔχομαι εἶναιは「~であると自慢する、広言する、宣言する」の意であり、例えば勇士の戦場での名乗りにおいて「自分は立派な血筋の者であると(自慢する)ぞ」というような時に使う表現だ。
しかし、押しつけがましいと咎められないかとの心配は無用だった。この祈願は功を奏して、オデュッセウスは河の神に助けられて上陸を果たす。
日本の戦記物でおなじみの「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にもみよ、我こそは~なるぞ」の名乗りは、上のεὔχομαι εἶναιに近いものだろう。しかしそれでも、「自慢する」とまでは言うまい、言うとしたら「自慢じゃないが」だろう。