3月14日

 オデュッセウスが陸地を目にしたときの気持ちを喩えてこう言う。

ὡς δ᾽ ὅτ᾽ ἂν ἀσπάσιος βίοτος παίδεσσι φανήῃ
πατρός,
ὃς ἐν νούσῳ κεῖται κρατέρ᾽ ἄλγεα πάσχων, (5-394,5)

あたかも子供達にとり父親の命が有難く思われるように、

それは病気で辛い苦しみを受けて臥していた(父親だ)

その病苦を神々の加護で免れたのだが、

ὣς Ὀδυσεῖ ἀσπαστὸν ἐείσατο γαῖα καὶ ὕλη, (5-398)

そのようにもオデュッセウスには陸地や森が有難く見えた

と。

水死の危険と回避を病死のそれに喩えている。印象的な比喩だ。

しかし今ひとつ腑に落ちないところがある。物語においては、死の危機に瀕していたのはオデュッセウスであり(陸地を)有難く思ったのも同じオデュッセウスだ。一方比喩の中では、死の危機に瀕していたのは父親であるがとりとめた命を有難く思ったのは子供達とされている。詩人はなぜ両方父親にしなかったのか。

あるいはこうかもしれない。上で「水死の危険と回避を病死のそれに喩えている」と言ったが、それは比喩の範囲を広げすぎた解釈かもしれない。そうではなく詩人はあくまで「陸地や森」を「とりとめられた命」に喩えているだけだ。すなわち「オデュッセウスにとっての陸地や森は、子供達にとっての父親のとりとめられた命だ」と。そう考えると、子供達にとっての父親の存在の大きさ、父親に寄せる真情が伝わってくる比喩であるようだ。

俳句仲間より色紙届く。

ゆく年や鏡の錆の映さぬもの  拙句

卑弥呼悩ます目尻の皺よ   徳昌

 これは先の忘年句会の時、席題「ゆく年」に応じて出した拙句に、仲間が脇を付けてくれた付合いだ。書の上手な別の仲間が色紙にしてくれたのだ。卑弥呼が出てきたのは心地よい驚きだったが、書も立派で有難い。