3月4日


カリュプソーはヘルメイアースの突然の来訪に驚く。


τίπτε μοι, Ἑρμεία χρυσόρραπι, εἰλήλουθας
α
ἰδοῖός τε φίλος τε; πάρος γε μὲν οὔ τι θαμίζεις. (5-87,8)

まあどうして、黄金の杖のヘルメイアース様、おいでになったのですか

畏くも愛しい方。前にはお越しになることはありませんでしたのに


といったんは問うたものの、例によって話よりは先ず歓待がはじまる。飲食が済んでおもむろに本題に入る。ヘルメイアースは答える。


εἰρωτᾷς μ᾽ ἐλθόντα θεὰ θεόν: αὐτὰρ ἐγώ τοι
νημερτέως τ
ὸν μῦθον ἐνισπήσω: κέλεαι γάρ. (5-97,8)

あなたが来た私に訊ねる、女神が神に。されば私はあなたに

真実のところをお話ししましょう、そうお望みなのですから


「女神が神にθεὰ θεόν」が面白い。熱愛している当人に、オデュッセウスを諦め、送り返すべしと伝える役割なののだから、いかにヘルメイアースとはいえ難題だ。そこで先ず「女神が神にθεὰ θεόν」、そしてそれを受けて「私はあなたにἐγώ τοι」。神々の世界にも「俺とお前の中じゃないか」に似た感覚が存在するようだ。


水原一の「平家物語」の朗読を聴いていてもう一つ思ったことがある。異文のことだ。

自分が覚えている章句とちょっと違うなと感じる箇所がいくつかあったのだ。

例えば冒頭近く、「康和のよしちか、平治ののぶより」。これは「康和のぎしん(義親)、平治のしんらい(信頼)」と覚えていた。

少し進んで、「しかるに忠盛」は記憶では「しかるを忠盛」だった。

さらに進んで、「雲の上人これをそねみいきどほり」の「いきどほり」はなかった。

これらはいずれも、前から覚えている章句の方がよりよく感じられるのはなぜか。本当に優れているからなのか、耳や喉に親しんできたがためにそう感じられるだけなのか。