3月1日


 昨日一昨日と打って変わって春らしい天気だ。


 さて今日から第5歌。再び神々の会議。議題はオデュッセウスの帰還についてだ。

 アテーネーがオデュッセウスへの心配を吐露するとゼウスは応える。その答えについての注釈を見ていて面白いことに気づいた。


  οὐ γὰρ δὴ τοῦτον μὲν ἐβούλευσας νόον αὐτή,
  ὡς ἦ τοι κείνους Ὀδυσεὺς ἀποτίσεται ἐλθών; (5-23,24)

お前自身がその計画を立てたのではなかったのか、

彼らにオデュッセウスが帰ってきて復讐すると(の計画を)


この詩行について、J.B.Hainsworthはこういう註を付している。

「ここでゼウスは『オデュッセイアー』のクライマックスを仄めかしている。このような予示は叙事詩ではよくある。伝承物語を語るに当たって、詩人は露骨なサスペンスを避けるものだからだ。サスペンスは、開放的叙事詩においては切迫した悲劇におけるほどにはなじまない手法なのだ。」

なんと、つい一昨日ここに記したことと逆のことを言っているように見える。そこでは第1歌から第4歌までいずれも末尾が、サスペンスを覚え、次の展開を期待させられるように終わっていると指摘したのだった。

ところが、である。上記に続く詩行


Τηλέμαχον δὲ σὺ πέμψον ἐπισταμένως, δύνασαι γάρ (5-25)

お前はテーレマコスを大事に送り返しなさい、お前にはそれができるのだから


について、前にも引いたピエロンは、

「詩人はテーレマコスが遭遇する危機に対して我々に不安を抱かせようとしているのだ」

と註している。テーレマコスの無事をまだ確定していないことのように扱っているからだ。これはまたHainsworthの逆(従って一昨日の記事と同様)のことを言っているように見える。

どっちが正しいのか。これは興味深い問題だ。簡単には判断できない。

Hainsworthの論も分かる。叙事詩人が語る物語の内容は聴衆周知の事であったろうから、我々がミステリー小説を読む際のようなサスペンスの意味はない。だから平気で先回りして後の展開を予示したりもする。

しかし一方、聴衆や読者は後の展開や結論を知ってはいても、詩人に導かれて物語進行の各時点で期待したり、不安を覚えたりするのも事実だ。

この問題はフィクションや詩の秘密につながるものを含んでいるような気もする。これについてはこれからも留意していこうと思う。