2月16日

 

 ヘレネーの話は続き、トロイアが攻め滅ぼされたときのことに及ぶ。


  ἔνθ᾽ ἄλλαι Τρῳαὶ λίγ᾽ ἐκώκυον: αὐτὰρ ἐμὸν κῆρ
  χαῖρ᾽, ἐπεὶ ἤδη μοι κραδίη τέτραπτο νέεσθαι (4-259,60)

  その時トロイアの女達は泣き叫びました、しかし私の心は

  喜びました、なぜならすでに私の気持ちは帰国の方に変わっていましたので


 ここは「おいおい、ちょっと待ってくれ」と言いたくなる箇所だ。自ら戦争の原因となり、散々犠牲者をだしたあげく「喜びましたχαῖρ᾽[khair]」はないだろう。あまりに軽すぎないか。それに、『イーリアス』におけるヘレネー、あの運命に向き合い耐える高貴ともいえる姿とはあまりに懸隔がある。

 更に、こんなことまで言っている。すなわち、祖国や子供、夫を捨てて出奔した事を悔やんでいたことを述べるくだりで、その夫について


οὔ τευ δευόμενον, οὔτ᾽ ἂρ φρένας οὔτε τι εἶδος (4-264)
  心においても姿においても何ら欠けるところのない方

と。こんなことを本人の前で、しかも客人もいる席で、いけしゃあしゃあと言うとは。それこそκυνῶπις(犬面の、破廉恥な)女だ。

 とだいぶ悪口を書いたが、詩人は一体なぜこんな風にヘレネーを描いたのだろうか。

 謎である。ただこういうことは言えるかもしれない。『イーリアス』と『オデュッセイアー』とが別の詩人の作であるならば、『オデュッセイアー』の詩人は『イーリアス』におけるヘレネー像に忠義だてする必要はなく、新たな、凡庸で、軽薄で、破廉恥な人物を描いてもいいはずだ。そうしてみれば、ここのヘレネーは弱さをもった女性の一つの像である。そして更に、仮に同一詩人の作だとしても、別の詩篇で新たな主題と構想のもと、共通の登場人物に新たな相貌を与えることはこれまたないことではない。両詩篇をあまりに一体のものとして捉えようとするところに無理があるのかもしれない。


 上で使った「いけしゃあしゃあ」、なかなか感じが出たことばだが、これはどこから来ているのか。考えて見たことはなかったが、どうも「いけ+しゃあしゃあ」であるらしい。「いけ」は「いけすかない」のそれと同じで非難、憎悪の意、「しゃあしゃあ」は「しゃあしゃあと嘘をつく」のそれで厚顔無知。口調からするとどうも江戸起源ではないかと思う。これも今度調べてみよう。