2月11日
テーレマコスは、ネストールの勧めに従ってメネラーオスのもとを訪れる。折しもメネラーオスの館では二つの婚礼が行われている。娘と息子の。
娘の方はアキレウスの息子に嫁がせる。
ἐν Τροίῃ γὰρ πρῶτον ὑπέσχετο καὶ κατένευσε
δωσέμεναι, τοῖσιν δὲ θεοὶ γάμον ἐξετέλειον (4-6,7)
というのもトロイアの地ですでに約束し承知していたので
(嫁に)やることを、そして神々がその婚姻を果たさせんとしていたのだ
これも彼の戦争の一後日譚である。
ところで、この6行目にも昨日の詩行と同様、倒置、逆転の表現がある。「約束しὑπέσχετο承知していたκατένευσε」と。普通は承知してから約束する。やはりここも重点は「約束しὑπέσχετο」の方にあるからだろうか。というのは、次行の「果たさせんとしていたἐξετέλειον」のは約束であろうから。
しかし、詩人は「約束し承知していた」ὑπέσχετο καὶ κατένευσε を(後先のある二つの事柄ではなく)一体で捉えでいたようにも思える。それであれば順番自体がなくなるわけだ。ただ昨日の例は、「美しい上着φᾶρος καλὸν」と「肌着χιτῶνα」の間に「着せたβάλεν」の語が入っていたので、若干事情は異なるようだ。
また、こうも考えられる。ギリシア語では、そしてホメーロスの詩では特に、語順はきわめて自由であり、近代ヨーロッパ語の文法感覚で語順を捉えることはできない。それと同様、語順とそれが語る事柄の時系列の順、それが本来一致するべきだという前提がひとつの思い込みである可能性もある。語順と事柄の時系列の順の間に一致しなければならないという法はないのだから。今日の例も昨日の例も、もっと柔軟に受け取らねばならないのかもしれない。
今日の項を書いていて思い出したことがある。過去と未来について、どちらが前でどちらが後ろか、という問いだ。ふつう「過去は後ろ、未来は前」とイメージしているのではないか。ところが「過去は前、未来は後ろ」と考えている人たちがいるというのだ。その理由は「過去は見えて(分かって)いるから前、未来は見えて(分かって)いないから後ろ」というものだ。成る程、言われてみるとそういうとらえ方もある。
2月12日
テーレマコスはメネラーオスの館を眺めその美しさに驚嘆して言う。
ὅσσα τάδ᾽ ἄσπετα πολλά: σέβας μ᾽ ἔχει εἰσορόωντα (4-75)
何と沢山の素晴らしい宝でしょう、眺めるにつけ畏敬が私を捉えます
「私は畏敬の念を抱きます」ではなく「σέβας (畏敬が)μ᾽(私を) ἔχει (捉えます)」だ。人ではなく物や事を主語にして人を動作の及ぶ対象物にしている。こう言う表現がホメーロスは得意だ。
『イーリアス』に「足が人を運ぶ」という詩句が何回か出てくる。いずれも(運ばれる)人の心が何かにとらわれている場合だ。ここでもテーレマコスは驚嘆のあまり心ここにあらずなのだろう。
昨日の「前・後」と「過去・未来」の関係、少し考えてみたらなかなか奥深いテーマであることに気づいた。
どうも日本語においては、むしろ「前・後」の語を「前=過去、後=未来」として使う場合が多いようだ。「三日前、三日後」「食前、食後」「この前はどうも、今後もよろしく」等々。
しかし、「後=過去、前=未来」を前提とした表現も少なくない。「後ろ向き、前向き」「過去を振り返る、前途洋々」など。ほかにも、前後の語そのままではないが関連するものとして、「足跡」は過去歩いた結果だし、「先の話」は未来の事を言っている。
どうしてこのような使い分けが生じているのだろう。そして、他の言語はどうか、ホメーロスではどうか。今度調べてみよう。