2月4日
きのうの「心の鬼」、何か似たことばがあったと考えていたら思い出した。ウチナーグチ(沖縄方言)の「ウチアタイ」だ。方言辞典を見ると、人に何かを言われてドキッとすること、とある。ちょっと違うが、「ウチ」は「内」で心のことだろうから捉え方は似ている。標準語でこれらに近い表現には「身につまされる」がある。これは「心」が「身」になっていて面白い。
ネストールは言う。
Ἀτρεΐδην δὲ καὶ αὐτοὶ ἀκούετε, νόσφιν ἐόντες,
ὥς τ᾽ ἦλθ᾽, ὥς τ᾽ Αἴγισθος ἐμήσατο λυγρὸν ὄλεθρον (3-193,4).
アトレウスの子については遠くにおられたあなた方もお聞き及びでしょう
帰還するなりアイギストスが無惨な破滅を計ったことは
アトレウスの子アガメムノーンの帰還にまつわる状況は、オデュッセウスのそれと道具立てがそっくりだ。帰還する王たる父親、その妻と求婚者、息子。それら共通の登場人物が『オデュッセイアー』ではどのような結末を得るか、アガメムノーンの悲劇と対比しつつ詩編は展開する。
2月5日
求婚者達を退治することを示唆するネストールに対し、テーレマコスはそんなことは神々が望んでも無理だと答える。傍らでそれを聞きとがめたメントールが言う。
Τηλέμαχε, ποῖόν σε ἔπος φύγεν ἕρκος ὀδόντων.
ῥεῖα θεός γ᾽ ἐθέλων καὶ τηλόθεν ἄνδρα σαώσαι (2-230,1)
テーレマコスよ、何ということばがあなたの歯並の垣を越えたのか
神というものはその気になれば遠くからでも人を助け得るのです
一行目は、相手の発言に対し強い異議申し立てを表するときのホメーロス独特の表現。人が脇役に退き、「ことば」が主役になってそれが「歯並の垣を越える」とは、喚起力に富んだ表現だ。
二行目の「遠くからでもτηλόθεν」も面白い。面と向かってそう言っているのは何を隠そう(メントールに扮した)女神アテーネーなのだから。こんなシーンは映画にでもすれば笑いを誘うこと請け合いだ。朗唱でも伶人がτηλόθεν [têlothen] のところをどう歌ったか聞いてみたいところだ。
今朝のニュース番組で、女性キャスターが字幕の誤りを詫びて、「先ほどの字幕でコウワ(講話)のワの字が間違っていました。正しくは話すのワでした」と訂正していた。字幕は見ていなかったがおそらく「講和」となっていたのだろう。面白かったのはこの女性キャスター、「正しくは」のところで自然に右手が動いて指で宙に字らしきものを書いたことだ。宙で言偏を書き足したものと見える。こういうことはときどきある、漢字を思い出そうとするときなどに。そこで思い出したのは、以前フランス人にその素振りを見られたときに怪訝な顔をされたことだ。そして「それは何か記憶を呼び起こすおまじないか」と問われた。これはおそらく漢字を使用する者に固有の素振りであり、アルファベット使用民族にはないことなのだろう。そういえば我々もひらがなを宙で書くことはないようだ。
2月6日
ネストールはアガメムノーンの悲劇を語る。アイギストスが妻クリュタイムネーストレーを拐かした次第を述べるのだが、その中に次の詩行がある。
τὴν δ᾽ ἐθέλων ἐθέλουσαν ἀνήγαγεν ὅνδε δόμονδε (3-272)
望んで、望んでいる彼女を、自分の館に連れて行った
ἐθέλων(望んで)とἐθέλουσαν(望んでいる)を重ね、しかもそれをτὴν(彼女を)とἀνήγαγεν(連れて行った)が交差する形で挟んでいる。交差というのはτὴν はἐθέλουσαν にかかりἐθέλων はἀνήγαγεν にかかるからだ。双方欲望に駆られ、いそいそと不義に身を任すさまを髣髴とさせる一行だ。
ここのネストールの語りでもう一つ、オッと思ったのは「Σούνιονスーニオン」が出てくることだ。この岬には行ったことがある。たった一度のギリシア旅行でアテネに着いた日、乗るバスを間違えて、乗ったバスの行き先がたまたまこのスーニオン岬だったのだ。だが、怪我の功名で、岬から眺める夕陽を浴びた地中海はよかった。『オデュッセイアー』の中にあるとは、今まで気づかなかった。