康三と次生はドイツから帰国した。
直ぐに創価学会本部から西日本の特に関西の弁護団と本部の弁護団の打合せを松本法律事務所で開く事になった。
錚々たるメンバーが集まった。
池田大作創価学会名誉会長側近の本部副会長始め関西創価学会副会長、並びに本部付きの弁護団が顔を付き合わせた。
康三は、裁判官当時の上席裁判官であった、宮川種次郎、元最高裁判事色川幸自郎を会合に参列してもらっていた。
松本法律事務所の応接室はソファがU字に置かれているが普段は余りあるくらいの空間で依頼者と打合せできるが、創価学会関係はどこか近くのホテルの会議室を借りて開きたいと次生は常々思っていた。
創価学会スキャンダルも一段落し、日蓮正宗総本山大石寺との訴訟も最高裁判決も結果的に創価学会の勝訴であった。
ある日、次生は結婚の日取りを決めるために母の潔子に相談した。
例の4女二男が潔子に何を吹き込んでいるのかわからないが潔子は結婚式に参列しないという。
なんともおかしな話しである。
長女初子、長男吉弘に次生は仲介に入ってもらい、潔子の結婚式参列を勧めるが出席しないと譲らない。
4女も二男も結婚していないから母として不憫に思うのか、何を結託したのかわからない。
次生は埒が明かないので結婚式を決行したのである。
この時も次生は康三に一切仲裁に入ってもらわなかった。どうせ無理なことはわかっていた。
康三は、何が嫌で次生の結婚式に母親として参加しないのかを正すこともなかった。
しかも、次生は康三に結婚式参加を要請していないにも関わらず、自分だけは参加していた。呆れてものが言えないとはこの事である。
日に日に露骨に4女と二男のジェラシーの炎が燃えさかってくるのである。
次生はそろそろ潮時かと思った。