康三は、潔子の端肉の廃棄肉をもう要らないと両次郎に告げてから直ぐに山口地方裁判所へと転勤を告げられたのである。
京都地方裁判所の裁判官であった康三は、家族8人で山口県へと移住した。
潔子は内心ホッとした。
あのややこしい康三の親族達から強制的に離れる事ができるからである。
山口県は見渡す限り牧歌的風景であり、潔子の人生において心洗わるひと時であったであろう。
長女初子と長男吉弘は山口県白石高校へと編入学し、来たる大学受験に備えていた。
3女の由紀子は白石中学へ。
4女晶子と次男康夫、3男次生は山口地方裁判所の裁判官達が住む裁判官官舎で過ごしていた。
山口地方裁判所では、戦後の凶悪事件の仁保事件、八海事件が起こっていた。
仁保事件(にほじけん)とは、1954年(昭和29年)10月26日に山口県吉敷郡大内村仁保(現在の山口市仁保下郷)で起きた一家6名の殺人事件である。
この替玉説は幕末、伊藤博文らによって孝明天皇が暗殺され、田布施村出身の奇兵隊士・大室寅之祐(おおむろ・とらのすけ)なる人物が"替え玉"として明治天皇に即位した説。
孝明天皇暗殺は長州藩の影響力を未来永劫、保持することが目的だった。公武合体派の孝明天皇は長州閥を快く思っていなかったとされている。
大室寅之祐が天皇に即位した結果、田布施出身者が日本を動かすようになったという都市伝説であるが、はたして単に都市伝説として片付けていいものかと思っている。
仁保事件も八海事件も、康三は担当裁判官として携わるのであった。
両事件は戦後の冤罪事件としても法曹界に留まらず、人権とは国家権力とはと国をあげての論争になっていった。
当然、被疑者が厳しい警察の追求に屈し、犯行を認める証言を公判途中で取り消し、無罪を主張すれば世論は黙ってはいられまい。
このような背景が山口県に移住した康三並びに家族に降り掛かってくるのである。
深深と雪が積もったある日の事・・・
お前はっーーー!
なんちゅーカッコしてるんやー!
と、康三の怒号が小さな平屋の官舎に響いたのである・・・