昨日、とある講義を受けました。
何の講義かというと、
・・・なんと言えば良いのやら?
「愛」とか「私とは何か」について・・・、
かなぁ?
でも、お陰様で、
私の中の、もやもやとした部分が、
だいぶスッキリしました。
私は、
愛を体験するために存在しているのだ
ということが、よく分かりましたね。
あぁ、やっぱり!
そうなんだ。嬉しい。。。
と思いました。
愛は言葉では説明できません。
それは、体験するしかない。
でも、その体験は、
滅多にない機会を、今か今かと待ち構えているわけではなく、
普段から、四六時中、体験しているのです。
どんな人でも。
いま、愛する人が居ないよ!という人でもです。
→そこでいう「愛する」ってのは、本当の愛とは全く違うものなんで
その体験を邪魔するのが、
「解釈」です。
純粋な体験を、分析し、あれやこれや理屈を付けて、
言葉に変換したころには、
似ても似つかないものになっている。
よく、「あぁ、それはね・・・!」と、講釈を垂れる人が居ますが、
それが心の中にいるのですよ。
体験は、体験のままで良いのに、
解釈することによって、元の体験は忘れられてしまいます。
誰だったっけ?
「ただ感じなさい」
って言ってましたよね。
もし、それが不快な感じだとしても、
それは、訂正できます。
その不快な感じは、
本物じゃないから。
心は、愛を体験するためのものなので。
愛じゃないものは、存在しない。
それが、ようやく確信できた気がします。