自分を救う | タケシのありのまま日記

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旧名から変更しました。

今日は、このブログの過去記事からです。

2008年の、スピリチュアル書庫から。

10年以上も前の記事を読み返していると、

懐かしいですし、

また、今更ながら、おぉ!そんな大事なことを学んでいたのね!

と思ったり。


今日は歎異抄の紹介です。

「私訳 歎異抄(たんにしょう)」五木寛之著 東京書籍

(略)

歎異抄は、浄土真宗の親鸞聖人の伝えを記したものです。って、私もそれまで全然知りませんでした。(^^;

(略)

いちばん印象に残ったのが、「他力本願」という言葉。

今まで「他力本願」というのは「他人任せ」の意味しか知りませんでしたが、本来は浄土真宗から来た言葉で、全く違う意味だったのです。

「本願」は、阿弥陀仏が善悪を問わず、生命のある全ての存在を極楽浄土に往生させようとする誓願のこと。つまり、「他力本願」本来の意味は、自分の修行の力ではなく、阿弥陀仏の本願の力によって成仏することである(言語由来辞典より)

この考え方って、これまで学んできたスピリチュアリズムと重なる部分が多いなと思いました。

仏様を信じてただひたすら祈るのみ。後は自分の手から手放して仏様に任せてしまう、というように解釈したのですが、「拘りは捨てる」「物事に善悪は無い」というスピリチュアリズムの教えと通じるものがあると思います。

親鸞聖人は、ひたすら修行をすることによって悟りを開く、いわゆる「真言密教」では煩悩を抱えた多くの人は救うことは出来ないと言い、ただ念仏を唱えるだけの簡単な方法で成仏できると唱えました。

昔は、修行が厳しい系統の仏教(真言密教)が由緒正しい本来の宗教で、修行に耐えられない凡人のためにいわば「お手軽版」仏教として浄土真宗があるのだと思っていました。

だから、真言密教が格上、浄土真宗は格下、という意識があったのですが、歎異抄を読んでそれは間違いだと思いました。

どちらが優れているという訳ではないのですが、親鸞聖人の教えはとてもシンプルなので、そのシンプルさが本当の真実であることを示しているようにも思えました。



深いね。「他力本願」

誰もが、簡単に救われる。

救われるためには血のにじむような努力が必要、

ということは、ないです。


それから、こちらも2008年の記事。

・スピリチュアリズムについて学べば学ぶほど、希望を得て満たされる部分もあるが、
 自分に対する理想と自分の現実のギャップがなかなか埋まらず、たまに徒労感を感
 じてしまう。

・自分が正しい方向に進んでいるのかわからない。
 正しいかどうか分かるように何かしらのメッセージをお願いしている(つもり)が、
 はっきり分からない。

・家で瞑想をしていても疲れからすぐに寝てしまう。
 スピリチュアル講座で先生の下で瞑想するととてもよい感じなのだが、家ではそれ
 ができない。朝でも夜でも眠くなるのは同じ。最近は諦めて、あまりやってない。
 今のやり方じゃダメなのかもしれない。


ん~、そうそう。

ほんとに、そんな悩みが多かった。

途中で投げ出しても不思議じゃなかったんですけど、

でも、止めなかったです。

止めなかった自分が偉かったというわけでもなく。

ただ、そう導かれていただけ。

理想と現実のギャップ。

これは悩ましかったです。

こうありたい!!

そんな思いが強かった。


理想なんて、描く必要なんて、

これっぽっちも無かった。

何者にも、なる必要はなかった。

今だから、そう言えますが。

あの時は、そうじゃなかった。