鏡の技法について | タケシのありのまま日記

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旧名から変更しました。

またまた最近読んでいる本からです。
先日に引き続き、「体の声を聞きなさい2」(リズ・ブルボー)です。この中に「鏡の技法」というものが出てきます。

以前も別の記事で紹介したこともありますが、「人間関係は、自分を理解するためのものである」「相手は自分の鏡である」「相手の中に自分の良いところも悪いところも映し出される」「よって相手を見ることによって自分を理解することが出来る」というのが「鏡の技法」です。

例えば、誰か意地悪な人に出会ったら、その意地悪なところは自分にもあるということです。
また、あの人の優しいところが好きだと思えば、その優しさは自分にもあるということです。
本当の自分を理解するために人間関係は存在し、この世で会う人は皆、自分のためにメッセージを携えてくるということですね。

この本は何度も読んだのですが、やっぱりこの「鏡の技法」はなかなか難しい話の一つだと思います。

相手に嫌な感情を抱いたとき、その嫌な感情の要素は自分の中にもある、ということですから、何か腹が立つことがあるたびに自分もその要素を持っているということになります。そうなると、私ってこんなにたくさん嫌な部分があるんだ・・・と凹んでしまいますよね。

実際私もいろんなことで腹を立ててきました。子供に対してとか、カミさんに対してとか、仕事上の関係者とか。
特に仕事では、理不尽な(と、自分では感じた)言動を受けて、深く落ち込んだこともありました。頭では「鏡」のことを思い出して、その相手の言動の要素は自分にもあると理解しようとしましたが、なかなか受け入れられなかったのは事実です。

また、逆に羨ましいと思うような人もいます。
あの人は、とても活発で行動的で前向きだから、羨ましい・・・と感じることがあります。とても自分にそんな要素があるなんて信じられません。自分には無いから羨ましいと感じるはずだ、と思うのです。

このような感じで、なかなか受け入れるのが困難でした。

でも、何度もこの考えを繰り返すうちに、少しずつ意識も変わってきたように思います。
例えば、腹を立てるような場合。
いったん腹を立てますが、「この相手の嫌な部分が自分にもあるとしたら、自分の中にどのような形であるのだろうか?」と考えることによって、意識が自分に向かい、怒りの感情が徐々に治まっていくのです。
結局のところ、自分の中にあるのかないのか分からなくても、それで冷静になれるし、客観的に相手を見ることもできます。相手も仕方が無い事情があったんだ、などと、その背景に気が付くことが出来ます。

また、自分の嫌な部分に気が付くと嫌悪感を抱いてしまいますが、「自分のこの嫌な部分はどこから来たのだろう?いつから出てきたのだろう?」と考えることによって、客観的に見ることが出来ます。
嫌な自分を嫌いになることは簡単ですが、でもそれでは自分が苦しいだけです。それでは何も解決しないし、せっかく気が付くチャンスが得られたのに、それを無駄にすることになります。

まず、気が付くチャンスを与えてくれた相手を許すことが大事だと思います。それも難しいことですが、でも出来ないことではないと思います。
そして、それが出来れば次に自分を許すことが出来ると思います。これまた更に難しいことですが・・・でも、不可能ではないと思います。

それから、相手の中に見つけた素晴らしい点を、自分の中に見つける努力をするようになりました。
これまた難しいことなので、「あ!私もこんなに素晴らしいところがあったんだね!」と簡単に気が付くことは出来ませんが、少なくとも「そうなりたい」という意識があり、そのような指向があるということは事実だと思います。
何かがそれを阻害しているだけで、まだ小さい芽の状態なのかもしれません。
じゃあ、何がそれを阻害しているのか?ということを少し考えるようになりました。

まだその結論が出ているわけではありませんが、自分にもそんな点があるということを少し信じる気持ちになっています。そうなると、やっぱり嬉しいですよね。それが自分を認めてあげるということなのでしょうか。

そう言えば、「子は親の鑑」と言いますね。
子供は、最も自分を映し出してくれる鑑なのでしょうね~。
まさに「鏡の技法」が使える関係なのかもしれません。