今日も、通勤電車の中で読んでいた本から印象に残ったお話を。。。
昨日の続きで、今日も「明日の神」(ニール・ドナルド・ウォルシュ)からです。
今日惹かれたのは、「新しい霊性における教育」というお話です。
まず、「明日の神」は次のように今日の教育について言っています。
「前にも言ったように、今は私立でも公立でも世界中の学校のほとんどでは、学習の中心は記憶、覚えさせることだ。なぜかと言えば、ほとんどの学校では子供たちに親の暮らしをそっくり繰返すことを教えようとしているからだ。そのための一番いい方法は、親が覚えていることをそのまま子供たちに覚えさせることだ。」
そして、新しい霊性の時代には次のような教育に変わるだろうと言います。
「教育の中心は創造におかれるだろう。それは創造教育と呼ばれるだろう。(中略)子供たちに、ほんとうのきみたちとは何か、を教えるだろうね。」
創造教育?といわれても、なんだかピンと来ません。
しかも、「和解」「再創造」「再一体化」が重要だと説いています。ますます分からなくなりました。。。
そこで、それぞれの説明があります。
「和解には社会や集団や個人がもう一度全体性を回復するための償いが含まれなければならない。(中略)償いのプロジェクトには、世界の貧富の差の解消も含めるべきだね。」
「(再創造について)あなた方が、もし平和に仲良く暮らしていきたいと思うなら、世界そのものを創り直して、人間であるとはどういうことか、成功するとはどういうことか、豊で幸せだとはどういうことかについて、新しい考え方を創り出さなければならない。」
「あらゆる場所の全ての人との再一体化だ。これはさまざまな形で現れている全ての生命との精神の融合を意味する。」
平和で仲良く暮らす世の中になることを目指すのであれば、世界中の人たちと相互理解を深めなければならない。そのためには、過去の様々な行いについてお互いに赦し合い、分かち合う必要がある。また、お互いに共通の普遍的な価値観を持たなければならない、ということでしょうか。
教育とは、人類、そして世界を救うための必要不可欠なものだと、この中では述べています。
そう、教育とは、自分だけが幸せになるためのものではなく、みんな、世界中の人々が幸せになるために行われるものだと思います。そもそも、個人の幸せは世界の幸せが無くては成立しないのですが。
何のための教育なのか、という部分が私の中でずっと引っかかっていた気がします。
そこにこの本は光を当ててくれた気がします。
ところで、いわゆる「読み書き計算」の扱いはどうなるのか?
それに対しては、創造教育の中で扱われるが、主要科目としてではないと言っています。
「勉強のための勉強として子供たちに教えられるのではない、ということだ。そうではなくて、子供たちが学ぶべきことを学ぶために教えられる。生徒はそういう勉強を、創造のプロセスで使う道具、つまり創造を可能にする道具と考えるようになるだろう。(中略)創造が楽しい経験だと分かれば、子供たちは誰でも創造のための道具を使いたがるだろう。勉強しなさいと無理矢理説得する必要はなくなる。」
でも、それは分かっていても、実際にどのようにすればよいか分からない、と聞き手のニールさんは問いかけます。それに対して、明日の神はこう答えます。
「勉強しろといわれることが生きることとどう関係するか分からないから、生徒は勉強したいと思わないのだよ。(中略)子供たちがわかりたいのは、どうしてこれを知っていなければならないのか?ということなんだよ。子供たちに、いいからとにかく勉強しなさい、などといってもダメだ。ワクワクする勉強、夢中になれる勉強をさせたいと思ったらそれではダメだね。
そうではなく、学課の周りに関係性と意味のサークルを描いてやればうまくいく。そのためには学課を教えるのではなく、全く違ったことを教えるのが一番いい。子供が本当に興味を持つことを教えるのだよ。それどころか、今日は何を教わりたいのかと子供たちに聞いたっていい。」
この内容は、以前新聞で見たことがあるフリースクールや、シュタイナー教育の学校に近い気がしますね。
とにかく、今の日本の普通の学校とは全く異なることは確かですが・・・。
でも、総合学習などを通して、昔に比べればこれを学ぶことの意味を問いかけるような授業も行われつつあるという話も聞きます。
この新しい芽を大事にしていって欲しいと思います。