五檀法日記は何を語るか | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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前ページに書いたように、「勘仲記」によれば、十月二十日の博多への元軍来着の情報を、京都の勘解由小路兼仲が十月二十九日に入手した。また十月二十一日の夜に起こったと見られる、壱岐付近での元軍船団の遭難の情報を、十一月六日に兼仲が入手した。では、その中間の十月二十日夜に起こったとされる、元軍の博多撤退の情報は、いつ京都に届いたのだろうか。それについて勘仲記は何も記していない。したがって前ページではこれに触れなかった。この問題に答えてくれるのは、「五檀法日記」という史料である。

 

 

五檀法日記

「五檀の法」あるいは「五檀の御修法(みずほう)」とは、皇室や国家のために行われる密教の修法(祈祷)の形式である。不動、降三世(こうさんぜ)、軍茶利(ぐんだり)、大威徳、金剛夜叉の五明王をそれぞれの檀に祭って、一定の日数にわたって連続して行われる。

 

「五檀法日記」は、中世に執り行われた上記「五檀の法」の記録である。応和元年(961年)から文永十一年(1274年)までの約三百年間にわたって、簡潔ながら克明に記されている。日記と言っても「勘仲記」のように毎日ではなく、記事のある年だけの飛び飛びの記録だから、むしろ年表のようなものである。

 

「五檀法日記」を今日我々が読むことができるのは、塙保己一によって江戸時代に編纂された文献集である「群書類従」に収められているからである。詳しくは、「続群書類従第二十六輯上釋家部」に収められている。この本は活字化されて「続群書類従完成会」から出版されており、中古本で求めることができる。「五檀法日記」の中の文永十一年の記事(註1)は、本書の九十七ページ上段にある。では、その記事を読んで見よう。

(註1)その前の記事は文永十年の彗星出現のため、さらにその前は文永九年の法皇御悩のための御祈である。つまり文永の役関連の記事はここに挙げる一か所しかない。

 

文永十一年記事

「続群書類従第二十六輯上釋家部」より引用:

「同(文永)十一年甲戌十一月二日。為蒙古調伏。於各々
本房被始修之。
 不動。聖護院宮。降三世。仙朝僧正。軍茶
 利。奝助僧正。大威徳。盛尊法印。金剛夜叉。
 了遍法印。
 五日為金輪法御加持令参之間。御加持聴聞。
 先軍茶利。次不動。次降三世。次金剛夜叉。
 次金輪法。大威徳。御加持有。元****
 九日々中結願。抑去六日申剋自鎮西飛脚上
 洛。去月十九廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵
 船退散了。文永十二年正月十八日僧事。権
 大僧都源。覚助法親王五檀法中檀賞譲。」

 

改行及び句読点は書籍中の原文の通りとした。****は原文では矩形の囲みになっている。

これを読み下し文にして見る。私は仏教に詳しくないので、誤りがあればご容赦願いたい。改行は段落のみとした。

 

読み下し文

「同(文永)十一年甲戌十一月二日、蒙古調伏の為、各々の本房に於いて之を修し始めらる。
不動(明王)は聖護院宮。降三世(明王)は仙朝僧正。軍茶利(明王)は奝助僧正。大威徳(明王)は盛尊法印。金剛夜叉(明王)は了遍法印。
五日、金輪法の為、之を御加持参らせる間、御加持聴聞す。
先ず軍茶利(明王)、次いで不動(明王)、次いで降三世(明王)、次いで金剛夜叉(明王)、次いで金輪法、大威徳(明王)に御加持有り。元****
九日日中に結願す。抑(そもそも)去る六日申剋(さるのこく)、鎮西より飛脚上洛す。去月(十月)十九、廿日両日に合戦し、廿日に蒙古軍の兵船、退散し了る。文永十二年正月十八日、僧事あり。権大僧都(ごんのだいそうず)源。覚助法親王、五檀法中檀を賞譲す。」

 

文永十一年十一月二日に、蒙古調伏のための五檀法による修法(祈祷)が始まった。「調伏」とは「密教において仏の力を頼み祈って怨敵、悪霊などを押さえしずめること」と辞書にある。相手は元軍だから、つまりは戦勝祈願である。この時点で、元軍の博多撤退・遭難の情報が京都に伝わっていなかったことがわかる。

「不動(明王)・・」以下は、各々の本尊への祈祷を担当した僧侶の名前を記している。ちなみに「聖護院宮」は皇族の僧侶で、後で出る「覚助法親王」と同じ人である。

十一月五日には「金輪法」という別の修法が加わった。金輪法とは金輪仏頂尊を本尊として行う修法である。「先ず軍茶利・・」以下はそのための加持が行われた順序を記している。

十一月六日の申の刻(午後四時ごろ)に、待ちに待った博多からの飛脚便が届いた。十月十九日、同廿日の両日にわたって合戦があり、同廿日に元軍の船団が完全に退去したと言う。精魂込めた五檀法の祈祷が「空振り」だったことがわかったのである。飛脚到着の記事の先頭の「抑(そもそも)」という接続詞が意味深長である。

十一月九日の日中に五檀法の修法が結願、すなわち打ち上げとなった。六日に元軍の退去が判明したのに、なお三日間も祈祷が続けられたのである。これは五檀法の祈祷があらかじめ日数を決めて行われる(註2)ために、途中で切り上げるわけにはいかなかったのであろう。

この後に翌年の正月十八日の記事が続いているが、重要でないと思われるので省略する。

(註2)必ずしもこのような方式だけではなく、例えば皇室のための安産祈願は、無事に出産が終われば「即結願了」となっている。

 

飛脚便は遅れた

上記のように、五檀法日記によれば、十月廿日夜に起こった、元軍船団の博多湾からの撤退を知らせる飛脚便は、十一月六日の午後に京都に到着した。元軍の撤退は十月廿一日の朝に判明したのだから、その日に飛脚が博多を出発したとして、飛脚の所要日数を9~10日とすれば、遅くとも月末には京都に届くはずの飛脚便である。それが十一月六日になって届いたのだから、一週間ほど遅れている。飛脚便はなぜ遅れたのだろうか。

 

飛脚便が遅れた理由を説明するような史料は、今のところ皆無だから、想像するしかない。

一つ考えられるのは、合戦後の博多の機能麻痺である。十月廿日の午後、鳥飼潟の戦いに移行するために、日本軍は博多、箱崎を放棄した。これによって無防備となった住民たちもまた街を捨てて、博多、箱崎はゴーストタウンと化した。避難した住民たちの中には、中央への情報伝達に関係する役人や飛脚なども含まれたであろう。いったん避難した情報伝達の関係者たちが博多に戻って、組織として再び機能するようになるまでには、一定の日数を要したであろう。

 

もう一つ、前ページ「勘仲記をどう読むか」で述べたように、現場としては博多湾撤退後の元軍の動向を知る必要があった。幸いに、壱岐で発見された遭難跡によって、元軍の遭難・帰国が確実となったが、それまでに一定の日数が経過した。こうして、十一月六日に京都に到着した飛脚便の内容は、元軍の博多湾撤退と、壱岐での遭難の両方を含むものになったであろう。十一月六日付の「勘仲記」の記事(註3)が、なんとなくこの二つをミックスしたような感じなのは、このためと思われる。

(註3)「去るころ凶賊の船数万艘海上に浮かぶも、俄かに逆風吹き来り、本国へ吹き帰す。少々の船又陸上に馳せ上がる。」

 

お礼参りか戦勝祈願か

前ページに書いたように、「勘仲記」の十一月六日付け記事に、元軍船団の遭難・帰国と捕虜の京都送りを伝える飛脚便の内容に続いて、次の文章がある(読み下し文で表示)。

「近日、内外の法の御祈り、諸社の奉幣、連綿として他事無し云々。」

前ページではこれを「お礼参り」と解釈したが、実は問題含みだった。問題は「近日」という言葉にある。「近日」には「数日前から」というニュアンスがあるから、飛脚便で元軍退散を知ってはじめて始まるべき、お礼参りに関して用いるのはおかしい。

 

この問題は「五檀法日記」によって氷解する。上記したように、「五檀法日記」は蒙古調伏のための五檀法の祈願が、十一月二日から同九日まで行われたことを記している。つまり五檀法による祈願は、博多合戦の結果が不明の状況で戦勝祈願として始められ、飛脚便によって元軍退散が判明した後も、惰性的に続行されたのである。

 

上掲の「勘仲記」十一月六日付け記事の文章は、まさにこれと整合している。「法の御祈り」とは、分かって見れば五檀法による祈願のことであった。また、その祈願は「近日」すなわち十一月六日の数日前に始まったのだから、「五檀法日記」の祈願開始の日、十一月二日と整合する。五檀法の祈願に関して、「勘仲記」と「五檀法日記」とは互いに裏付け合っているのである。

ということで、上掲の「勘仲記」の文章を「お礼参り」と解釈したのは間違いであり、実は「戦勝祈願」であった。

 

また、「勘仲記」の十一月七日付けには、「異国御祈りに依り、十六社に奉幣を発し遣わさる」という記事があり、十六の神社の表が添えられている。これもまた、上に掲げた十一月六日の記事のなかに「法の御祈り」と並んで「諸社の奉幣」という言葉があることから、惰性的に続けられた戦勝祈願と見られる。

一方、「勘仲記」の十一月八日付けには、「上皇、八幡宮に幸す、供し奉る人々浄衣を着す、異国の事報賽(註4)の為なり、浄衣の御幸は初度なり。」という記事があり、これは明らかにお礼参りである。

(註4)「大辞泉」奉賽:祈願が成就したお礼に神社に参拝すること。

 

博多合戦前後の京都の状況:まとめ

●十月廿九日に、 元軍の博多来襲が伝わった(勘)。

●その後、博多の情報は途絶えた。

●不安に駆られた京都では、五檀法による戦勝祈願が始まった(五、勘)。

 また各神社への奉幣も始まった(勘)。

●十一月六日に、十月廿日の元軍の博多撤退が伝わった(五)。

 恐らくこの時、元軍船団の遭難も同時に伝わった(勘)。

●六日の情報にも拘わらず、戦勝祈願はその後二、三日、惰性的に続けられた(五、勘)。

●これと重なって、神社へのお礼参りも行われた(勘)。

(五)は五檀法日記、(勘)は勘仲記。

 

廿七日撤退説との関係
服部英雄氏は著書「蒙古襲来」において、元軍が通説のように合戦当日の十月廿日に撤退したのではなく、その後も一週間ほど戦闘を継続して、十月廿七日ごろに撤退した、という説を主張しておられる。便宜上、この説を「廿七日撤退説」と呼ぶことにしよう。
廿七日撤退説についてはいくつかの根拠が挙げられているが、そのなかで「勘仲記」が最も重要と思われる。

「勘仲記」が廿七日撤退説の根拠となる理由は次の通りである。
先ず、「勘仲記」に記されたいくつかの情報の伝わり方から見て、飛脚便博多を出発してから、京都に到着した飛脚便の情報を、著者の勘解由小路兼仲が、伝聞などによって知るまでの所要日数は9~10日である。
元軍の博多撤退の情報を兼仲が伝え聞いたのは、十一月六日である。この日付に上記の所要日数をあてはめれば、飛脚は十月廿七日~廿八日に博多を出発したことになる。これは元軍が、十月廿七日ごろに博多を撤退したことを示している。

これに対して、「五檀法日記」は廿七日撤退説に対する反証を提供している。

「抑(そもそも)去る六日申剋(さるのこく)、鎮西より飛脚上洛す。去月(十月)十九、廿日両日に合戦し、廿日に蒙古軍の兵船、退散し了る。」

第一に、この文章は元軍の撤退の日が十月廿日であることを明示している。

第二に、一文のなかに元軍撤退の日と、飛脚到着の日の両方を含むことによって、飛脚便の到来が通常より遅れたことを分からせている。

「五檀法日記」によれば、一週間ほど遅れたのは元軍の撤退ではなく、飛脚便の到着であった。