勘仲記をどう読むか | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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リアルタイム史料

「勘仲記」は元寇の時代に京都にいた一人の下級貴族が書いた、日記風の記録である。貴族の名前は広橋兼仲、別名を勘解由小路(かでのこうじ)兼仲と言う。「勘仲記」は前記別名の頭と末尾を取って、後世の人が兼仲の日記に名付けたものである。文永の役の時、兼仲は30歳で、位はまだ蔵人になっておらず、したがってまだいわゆる殿上人ではなかった。

 

日記の現存する部分は文永の役、弘安の役を含み、その間一日も欠かさずつけてあり、かつその日の天候が必ず添えてある。元寇に興味を持つ人にとっては、リアルタイム史料と言うべき貴重な記録である。

一方で、兼仲がまだ位が低かった時期に書かれているので、元寇に関する記事は大宰府の報告書等を直接見て書いたものではなく、「・・風聞」「或人云・・」などと書かれた伝聞が多い。その点で、記事の正確性については割り引いて考えなければならない。

 

リアルタイム史料と言っても、当時の情報伝達手段は飛脚しかなかったのだから、遠隔地の情報については何日かの遅れ付きのリアルタイムである。では、我々にとって重要な博多発の飛脚便が、京都の六波羅に届き、朝廷に転送され、その内容が伝聞によって兼仲の耳に達するまでに何日かかったのだろうか。服部英雄氏は著書「蒙古襲来」(山川出版社2014年12月初版)において、「勘仲記」の記事を検討して、その所要日数を9~10日と推定しておられる。後で見るように、この推定は妥当と思われる。

 

勘仲記を読む

「勘仲記」は兼仲肉筆の原本が現存しており、デジタル化もされているようだが、いざ読むとなると記事は草書体なので、素人には手に負えない。幸い、文永十一年を含む部分が活字化されて、「史料纂集 勘仲記 第一」として八木書店から出版されているので、これによって読むことにする。

文永の役に関係する記事が載っているのは、十月十八日、十月廿二日、十月廿九日、十一月六日の四か所である。

 

十月十八日

「晴、風烈、異国賊徒等来着対馬嶋之由有風聞云々、鎮西使者已下向関東云々」

読み下し:「晴れ、風烈(はげ)し、異国賊徒等(ら)対馬嶋に来着の由風聞有り云々、鎮西の使者已(すで)に関東に下向す云々。」

 

この日の記事はこれだけだが、これが文永の役関連の最初の記事である。元軍の対馬来着を述べている。来着の日付は述べていないが、「一代要記」によれば十月五日である。対馬の戦闘はその日のうちに終わったとされるから、対馬の陥落を博多に伝えた伝令も、十月五日に対馬を出発したはずである。対馬~博多の連絡には何日かかったのか。対馬出発の十月五日から、兼仲が情報を入手した十月十八日までは14日あるから、上記した博多~兼仲の所要日数9~10日を差し引くと4~5日が残る。手漕ぎ船で、この日数で対馬~博多間をカバーするのは難しいようにも思えるが、「勘仲記」の日付が厳然としてあるので、どうしようもない。

 

十月廿二日

「自夜雨降、巳刻以後雨脚漸休、天顔猶陰、<中略>去十三日於対馬嶋筑紫少卿代官凶賊等合戦云々、依此事資能法師差遣飛脚関東云々、興盛之沙汰驚遽無極者也、我朝神国也、定有宗廟之御冥助歟、可貴者也、<以下略>」

読み下し:「夜より雨降る、巳の刻以後雨脚漸く休(や)むも、天顔なお陰(くも)る、<中略>去る十三日対馬嶋に於いて筑紫少卿代官、凶賊等(ら)と合戦云々、此の事に依りて資能法師(註1)、飛脚を関東に差し遣わす云々、興盛の沙汰、驚遽極まり無き者なり、我が朝は神国なり、定めて宗廟の御冥助有らんか、尊ぶ可き者なり、<以下略>」

(註1)資能法師とは少弐景資の父、少弐資能のこと。

 

この日は記事が多い。<中略>のところは、この日の雨と異国騒ぎによって各種行事が取り止めになったいきさつが長々と書いてある。<以下略>のところもほぼ同様である。

 

元寇に関する情報は、対馬で元軍との合戦があったというものである。対馬については前記したように十月十八日付けの元軍来着の記事があるので、対馬関係の続報か?とも見えるが、それにしては十三日という合戦の日付がおかしい。この十三日という日付については、「一代要記」に「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々」という記事があり、元軍が壱岐に上陸した日付となっている。また高麗史を見れば、「高麗史節要」の元宗十五年十月に「戰艦九百餘艘發合浦、越十一日船至一歧島」という記事がある。合浦を出発してから十一日を経過して壱岐に着いた、と言うのである。出発日は「高麗史世家」に十月乙巳(三日)となっているから、出発後十一日目は十月十三日である。こうして見ると、「勘仲記」の十月廿二日記事の「対馬嶋」は誤りで、実は壱岐の記事である可能性が高い。

 

例によって情報伝達の所要日数を検討する。「一代要記」に従って壱岐の陥落を十四日とし、この日に博多への伝令が出発したとすれば、情報を兼仲が入手した廿二日までは9日しかない。「博多~兼仲・9~10日」の法則をあてはめれば壱岐~博多はゼロ~マイナスになってしまう。ただ、廿二日の記事には「風聞」「或人云」などの文字がないので、何らかの事情で兼仲が人伝てではなく直接に情報に接した可能性がある。この場合は博多~兼仲間が最短8日で済んだ可能性があるが、その場合でも壱岐発の情報が翌日には博多に届かなくてはならない。これが可能かと言えば、あながち不可能とも言えない。壱岐の東岸から博多までは直線距離で60kmほどあるが、対馬海流や北西季節風が後押ししてくれる。対馬海流の流速は2~3km/hと言われるから、計算上は、ただ海上に浮かんでいるだけでも24時間後には博多沖に着くのである。

 

十月二十九日

「陰、異国賊徒責来之間興盛之由風聞<以下略>」

読み下し:「陰(くもり、異国賊徒責め(攻め)来るの間、興盛の由、風聞<以下略>」

 

<以下略>のところは、関東の武家の不穏な動きについての伝聞があるが省略する。

上記の記事は元軍の博多侵攻の第一報であろう。恐らく鳥飼潟合戦の当日、十月廿日に博多を出発した飛脚便である。その内容が十月廿九日に、伝聞によって兼仲の耳に入った。出発した廿日も入れて10日かかっている。この記事は、前記した「博多~兼仲9~10日」の法則が正しいことを、最も端的に証明している。

 

廿日の日中に博多を出発した情報であれば、その日の元軍優勢の戦況を含むが、翌日朝に判明した元軍の撤退を含まない。元軍の「興盛」とはそのような状況を表した言葉であろう。

 

十一月六日

「晴、或人云、去比凶賊船数万艘浮海上、而俄逆風吹来、吹帰本国、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部太夫郎従等凶賊五十余人許令虜掠之、皆搦置彼輩等、召具之、可令参洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可貴、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、他事無云々」

読み下し:「晴れ、或る人云う、去る比(ころ)凶賊の船数万艘海上に浮ぶも、俄に逆風吹き来り、本国に吹き帰す、少々の船また陸上に馳せ上る、仍(また)大鞆(友)式部太夫の郎従等(ら)、凶賊五十余人許(ばかり)之(これ)を虜掠せしむ、彼輩(やから)等(ら)は皆搦め置き、之(これ)を召し具して参洛せしむ可し云々、逆風の事、神明の御加被歟(か)、止事(やんごと)無く貴ぶ可し、其の憑(あかし)少なからぬ者なり、近日内外の法の御祈り、諸社の奉幣、連綿として他事無し云々」

 

この日の記事はこれで全部で、全て元寇関連である。記事の主題は三つあると言えよう。元軍の遭難、元軍捕虜の処遇、神仏へのお礼参り(註3)の三つである。

(註3は末尾参照)

 

最初の主題は元軍の遭難の話である。「凶賊船数万艘」は誇張であろう。伝えた方と聞いた方、どちらが誇張したか分からないが、京都の貴族たちの軍事感覚はこの程度、ということが分る。元軍の船隊が逆風に遭って本国に帰った、一部の船は陸上に打ち上げられた、と言う。兼仲は十一日六日に、伝言によってこのことを知ったのだから、「博多~兼仲9~10日」の法則をあてはめれば、十月廿七日ごろに起こった出来事ということになる。すると、元軍は十月廿日の合戦の後も一週間ほど現地に居座り、船隊が博多湾内で暴風雨に遭った挙句に撤退した、ということだろうか?

 

私の結論を先に書けば、この記事が述べる元軍の遭難と帰国は、博多湾内で、日本人の眼前で起こったのではなく、後に判明した壱岐の状況から推定したものであろう。元軍の船隊が合戦の翌日、十月廿一日の朝までに博多湾から姿を消しても、日本人にとって文永の役は終わりではなかった。元軍はそのまま本国へ帰ったのか?それとも既に制圧した壱岐または対馬に留まって、戦力を養っているのか?後者であれば再襲来に備えなければならない。博多を撃退されてもなお松浦郡や対馬を荒らしまわった刀伊の賊の故事もある。大宰府は急遽、偵察部隊を編成して壱岐、対馬に送り出しただろう。

 

偵察部隊が壱岐まで行ったところ、すでに元軍の姿はなく、この後「安国論私抄」の項で説明するような、大規模な遭難の跡が残されていた。元軍が遭難の被害でほぼ無力化して、すでに本国へ去ったことは明らかであった。これがわかって初めて、日本人にとっての文永の役は終結したのである。兼仲が十一月六日に知り得た伝言の元情報は、このような壱岐偵察の報告であったと思われる。

 

偵察部隊を送り出すと言っても、合戦直後の混乱の中では、その編成も容易ではない。海上輸送を担う松浦党が元軍によって壊滅しているから、なおさらである。また壱岐までの往路、現地調査、博多への復命にも、それぞれ日単位の時間がかかる。これらの合計が一週間になったとしても不思議ではない。十月廿九日に知り得た博多合戦の第一報から約一週間の間隔が開いたのは、このような事情であろう。

 

次の「仍」から「参洛云々」までは話題が変わって捕虜の話になるが、これは壱岐偵察の続きではなく、博多で数日前に起こったことの後日談である。「仍」の原義は「重ねる」ことだから、接続詞のように用いられると「また」「ところで」などのニュアンスを表すことができる。前のページに書いたように、廿一日の朝、元軍の船隊が博多湾から去った後に、大船一隻のみが志賀島付近に取り残されており、乗っていた元兵は大友頼泰の手勢に捕らえられた。彼の輩等を・・参洛せしむべし、すなわち捕虜たちを京都に護送することになった、と言うのは、上記志賀島の捕虜の処遇について、この時までにそのように決定したのでよろしく、と受け入れ側の京都に連絡したものであろう。捕虜の人数「五十余人」は、「一代要記」の言う「六十人ばかり」と一致している(前ページ「付記:兵船二艘120人の夜襲部隊は実在したか」参照)。

 

「近日」から後は寺社へのお礼参り(註3)の話である。お礼参り(註3)は、前記十月廿九日(博多発廿日?)の博多襲来の記事の後には特にその記述がないのに、この十一月六日の記事からとつぜん始まり、七日、八日と続く。例えば八日には「(亀山)上皇、八幡宮に幸す、異国の事の為に報賽なり、浄衣の御幸は初度なり」とある。人々が元軍の遭難・帰国の知らせで初めて愁眉を開き、神に感謝を捧げた様子がわかる。兼仲の感想、「逆風の事、神明の御加被か」に神風伝説の萌芽が見られる。「文永の役に神風は吹かなかった」という言い方があるが、神風は確かに吹いたのである。ただし博多ではなく壱岐で。

(註3は末尾参照)

 

安国論私抄

日蓮の弟子たちが編纂した、日蓮の「立正安国論」の解説書である「安国論私抄」には、日蓮が入手した当時の情報が生で引用されているところがあり、間接的な同時代史料をなしている。そのなかで元軍の壱岐遭難に関係する文章について、以前のページで言及したが、ここでその関係部分の全文を載せておこう。

 

「朝師御書見聞 安国論私抄 第一 蒙古詞事」より 
「又或記云十(一歟)月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人<以下略>」

 

「十(一歟)月」というのは、原文に「十月」と書いてあったのを、「十一月の誤記か?」と注釈したのであろう。「十一月廿四日に聞ふる(聞こうる)定」とは、この日に京都に伝わった情報、という意味であろう。内容は各地の元軍漂着船、漂着死体の状況をまとめたものである。これを見れば、元軍の遭難は明らかである。中でも壱岐の漂着船の数、百三十三艘(註2)は飛びぬけており、遭難の場所が壱岐であったことを強く示唆している。「蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル」という文章は「勘仲記」の「少々の船また陸上に馳せ上がる」とよく似ている。百三十三艘は「少々」とは言えないが、「勘仲記」が言う「数万艘」に対しては1パーセント以下である。

(註2)これだけで大船の数、126隻を上回ってしまうが、恐らくバートル(上陸用舟艇)も含めた数であろう。蒙古襲来絵詞の絵を見ると、上陸用舟艇と言ってもかなり大きな舟である。

 

引用文中の<以下略>のところは、日本側の戦功と損害の集計のような記事である。それと併せて、この報告書は文永の役の総括のような性格のものであったと考えられる。漂着船は広い範囲にわたっているが、その中に壱岐、対馬の情報があることが、偵察部隊の存在を示唆する。なぜならこの時期、壱岐、対馬は「死の島」であって、博多に注進するような余力は無かったはずだから。

 

その偵察部隊が調査の初期段階で発見した、壱岐の状況があまりに重大であったために、上記した総括報告書の前に、壱岐の情報だけで先ず第一報が送られただろう。それが、十一月六日に兼仲を驚喜させた伝聞の、元情報であったと考えられる。

 

天候記録のまとめ

前述のように、「勘仲記」は毎日の記事に必ずその日の天候が添えてある。京都は博多から東に約500km離れているが、緯度の差は約1.3度に過ぎない。その間は瀬戸内海でつながっていて、高い山脈などの障害物がない。天候は西から変わると言われるから、京都の天候は博多と同じではなくとも、その影響を受けるであろう。「勘仲記」の天候記録は、その日に博多で起こった事件の、天候上の裏付けになり得る。

「勘仲記」の天候記録を、博多合戦の3日前の十月十七日から、同じく10日後の十月卅日まで列挙して見よう。読みやすいように読み下し文で示す。

 

十月十七日 晴れ

十月十八日 晴れ、風烈し

十月十九日 晴れ

十月廿日   晴れ、朝霜太し

十月廿一日 晴れ

十月廿二日 夜より雨降る、巳の刻以後、雨脚漸く休(や)むも、天顔なお曇る

十月廿三日 晴れ

十月廿四日 晴れ

十月廿五日 晴れ

十月廿六日 晴れ

十月廿七日 晴れ

十月廿八日 晴れ

十月廿九日 曇り

十月卅日   晴れ

 

これを見るとわかるように、この期間は非常に天候が安定していて、雨が降ったのは十月廿一日の夜から翌廿二日の午前中にかけての、一回のみである。

 

日本側の記録との整合

文永の役に関する日本側の史料と、勘仲記の天候記録は、どのように整合するだろうか。前ページにも書いたように、文永の役の同時代史料、またはこれに準ずる史料である「一代要記」「金綱集」「八幡大菩薩愚童訓筑紫本」の三つは、元軍が博多(鳥飼潟)合戦の当日、すなわち廿日の夜に、神軍出現の結果として撤退したことで一致している。またこの際、博多湾で暴風雨があったとは、どの史料も述べていない。暴風雨など無かったからこそ、撤退理由を説明するために神軍説話が「必要」だったのである。

 

一方、勘仲記の天候記録を見ると、十月廿日、十月廿一日(昼間)の二日間にわたって、京都の天候は晴れであった。すなわち、勘仲記の天候記録は上記した三つの史料の記述に、裏付けを与えている。

 

高麗史・金方慶伝との整合

高麗史・金方慶伝については今までに何度か取り上げたが、それが「勘仲記」の天候記録とどのように整合するか、という観点から、もう一度見てみよう。

元軍撤退のいきさつについて、高麗史・金方慶伝が述べている部分を引用すれば、下記の通りである。読みやすいように読み下し文とし、できごとの時系列に関係ない部分は<中略>とした。また人名に下線をつけた。

「諸軍與に戰い、暮に及びて乃わち解く。方慶忽敦・茶丘に謂いて曰く、<中略:再戦の主張>。忽敦曰く、<中略:撤退理由>、軍を回すに若かず。復亨、流れ矢に中り、先に舟に登る。遂に兵を引きて還る。
會(たまたま)夜に大風雨し、戰艦岩に触れて多く敗る。、水に堕ちて死す。合浦に到り、<以下略>」

 

金方慶伝の記述は、時系列に忠実に従っていると見られる。上記の文章の中で唯一の例外は「復亨、流れ矢に中り」である。このことが起こった時点が、文章中の位置より遡ることは、一行目で金方慶の議論している相手の中に劉復亨の名前が無いことでわかる。この時彼はすでに負傷して、軍議を欠席していたのである。「復亨、流れ矢に中り」は「先に舟に登る」の理由説明である。

 

ということで、時系列は:

諸軍の戦闘→自然休戦→(軍議開催)→金方慶の再戦主張→忽敦の撤退理由説明→撤退の決定→劉復亨の乗船→全軍の乗船と出航→夜間の大風雨→船隊の遭難→合浦帰着

ということになる。

この時系列に、上述した日本側の史料の二つの一致点、「廿日夜の元軍撤退」および「博多湾では暴風雨は無かった」を重ねれば、元軍船隊の遭難は廿一日以降の夜間に起こった、ということになる。なぜなら上記の時系列において、廿日夜(から廿一日未明にかけて)に行われた全軍出航の後に、「夜の大風雨」が来るからである。

 

そこで「勘仲記」の天候記録を見ると、十月廿一日の夜から、翌廿二日の午前中にかけて雨が降っている。多くの行事が中止されたぐらいだから、恐らく本降りだったのであろう。かくして「勘仲記」の天候記録は、遭難者側の記録である高麗史・金方慶伝にも、裏付けを提供している。元軍はまさしく合戦の当日十月廿日の夜に撤退し、恐らくは廿一日の夜に暴風雨に遭ったのである。

 

遭難の場所は、「安国論私抄」の記録から見て壱岐または壱岐周辺である。恐らく壱岐到着以前の航行中に遭難し、損害を受けて壱岐に到着した後、使い物にならなくなった大船や、足手まといになったバートル艇を壱岐の海岸に遺棄したのであろう。壱岐に到着できなかった少数の難破船は、海流に乗って各地に漂着した。これらを集計したのが、「安国論私抄」に記載された十一月廿四日到着の報告書であった、と考えられる。

 

まとめ
●「勘仲記」文永十一年十月十八日付けに元軍の対馬来着の記事がある。十月五日の対馬合戦と思われる。
●同十月廿二日付けの「十三日対馬で合戦」の記事は、壱岐の誤りと思われる。
●同十月廿九日付けで「元軍が攻め来たり、強盛」の記事がある。廿日の博多合戦と思われる。
●同十一月六日付けの元軍の遭難/帰国の記事は、博多撤退後の壱岐偵察の情報と思われる。
 壱岐で発見された遭難跡により、元軍の遭難・帰国が判明したことによって文永の役が終結し、寺社へのお礼参り(註3)が盛行した。

●元軍は十月二十日の夜に博多から撤退し、同廿一日の夜に壱岐付近で遭難したと推定される。

 「勘仲記」の天候記録は、この推定を裏付けている。

 

(註3)十一月六日記事の「近日、内外の法の御祈り、諸社の奉幣、連綿として他事無し云々」をお礼参りと解釈したのは間違いで、実際は戦勝祈願であった。次ページ「五檀法日記は何を語るか」で訂正した。ただし十一月八日記事の「上皇、八幡宮に幸す、異国の事の為に報賽なり」は明らかにお礼参りである。