絶対的な存在。
娘役にとって、花組にとって、そして宝塚歌劇にとって。
ただ、宝塚の世界でこの絶対性は「永遠」を意味せず、保証しない。
誰もが分かっていることだけれど、大切な人になればなるほど、無意識のうちにそのことに目をつむるようになる。
2015年8月7日。
人生で短冊に願いを書いた記憶はないけれど、書こうと思った。
仙名彩世のことを、書こうと思った。
私には願うこと、祈ることしかできない。
微力にもならないかもしれないけれど、でも、出来ることを出来る限りする。
予想などするものか。
だから、退団発表は突然やって来る。
今日は思わず「えっ・・・」と声が出てしまった。
ドラマでこういうシーンを観ると「嘘っぽい」「作為的」だと思う方だ。
しかし意外とそうなってしまうものなのだと客観視できていたのも束の間、一気に力が抜けていった。
私にとって仙名彩世は夢だった。
もちろん今も、これからも。
「地味じゃない?」
と言われたことがある。
感性は争えない。
相手の感性を否定するつもりもない。
なので私は私で改めて想う。
仙名彩世が地味だとすれば、世界に花は存在しないことになる。
私は優等生、何でもこなすタイプは感覚的にあまり得意ではない。
ただ、彼女はそのレベルが全てにおいてすば抜けている。
結果だけでなく、魂と技術に磨きをかける姿勢やプロセスも含め、全てが芸術である。
いつ観ても、ただ、ただ、美しい。
完璧で隙がないのにお茶目な所はあって、そこも舞台人として魅力的である。
真面目で礼儀正しく、基礎がしっかりしているから遊び心を自由に展開しても映えるのだろう。
「揺らぎ」=スウィングで人を魅了できるのは核、軸がある人のみ。
軸がなければただのおふざけ、自己満足だが彼女は極上のエンターテイナーである。
さて、どんな気持ちで「祝祭喜歌劇」を観れば良いのだろうか。
答えは簡単だ、考える必要はない。
いつも通り圧巻のパフォーマンスで躍動する仙名彩世が、華々しく頂点のまた頂点に駆け上がっていく様に心躍らせるのみ。
きっと劇中も、サヨナラショーでも理性と感性、いずれにも圧倒的に響く舞台を魅せてくれるので、涙が出る隙を与えてくれないはずだ。
花組の永遠の花、史上屈指の花娘として歓喜のうちに散る姿を今のうちに想像して、今のうちに枯れるまで泣いてみるか。
喜びも、悲しみも、彼女を想う全ての深く強い感情は、彼女を愛している証だから。
トップにならなくてもできる役、場面はいくらでもある。
でもトップにならないとできない役、場面もある。
残された時間で、仙名彩世に良い役、場面との出会いがありますよう。
最後の瞬間まで心身共に元気でありますよう。
願い、祈り、応援しています。
