その日の朝、私は、ふらり、はじめて、六角堂に立寄り、ある人を待つ、時間を、つぶしておりました…。
六角堂は、聖徳太子の建てた、由緒あるお寺だそうです。
隣接して、いけ花の、池坊会館もあります。
私は、余程いい齢になってから、法然院の和尚さまの書いたご本を読んで、初めて知ったのですが、お花は、そもそも、みほとけに、供えるものですから、六角堂と池坊会館は、しごく、自然なつながりにあると、言えましょう。

東京の浅草寺では、フンをする鳩には、エサを与えるなと、私が20代の若き日、すでに、そんな無情の看板があるを、みて、私はたいそう、心を傷めた記憶が、今も忘れられず、残っておりますが、ここ京都の六角堂では、鳩たちが、人をおそれず、平和にむれ集っているさまを見て、仏の慈悲というものを、しみじみ、覚えたことでした。
(註 六角堂で、鳩が、栄えていることは、すでに、有名な事実のようです)
⇒西国三十三箇所巡礼六角堂は、西国三十三か所めぐりの、第十八番目札所。
第十七番目が、前回の京都旅行で訪れた、六波羅蜜寺で、第十六番目が、かの、あなどるべからざる、清水寺。
その朝は、そんなことも知らず、私は、ただボンヤリ、腰を下していた丈でしたが、そのうち、杖をもった、お参りの団体さんたちも、わらわら、やってきて、お坊さんが「色即是空、空即是色…」と唱えるのに、大ぜいで唱和する人びとや、それらとは離れ、低い声で、独り、ぶつぶつ、念仏をあげている方もおり、さまざまの苦渋を抱えた、さまざまの人生があるのだなと、しみじみとした感慨にひたりました。
そもそも、この巡礼に参ることには、この世で犯したじぶんの「罪」を、ありがたい、観音菩薩さまのご慈悲によって、きれいさっぱり、浄化してもらえる、そんな功徳が、あるのだそうです。

けぶりたつ、お香のにおいを、嗅ぎながら、私も、「苦悩」と「罪」をかかえた、ひとりの人間として、ほとけの道、ほとけの教え、ということが、身に迫ってきました。
これまで何度か、六角堂の前を、通り過ぎていたのですが、この日、私は、ここで、はじめて、これから決して忘れることはないであろう、ほとけのをしへに出会う、ご縁をいただきました。
それが…
和顔愛語。
下坂幸三先生の、ご本の中で、今年5月に、この言葉に出会ってから、よい言葉だと、思ってきました。
拒食と過食の心理―治療者のまなざし/岩波書店

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いま改めて、読みなおすと、それは微妙に違っていて、下坂先生は、ただ、道元の「愛語よく回天の力あり」という言葉を、紹介していた丈でした(同書291頁)。
そこから、「和顔愛語」という言葉を、私が調べて、知るに至ったのか、或は、下坂先生の、他の書物に、その言葉があったのか、わかりません。
ただ、この下坂幸三(1929-2006)、という人が、「奇病」として、精神科医も、知らぬ顔の半兵衛を、決め込んでいた、anorexia nervosa(神経性食思不振症)の患者に、徒手空拳、精神療法で、長年、死ぬまで、いどみ続けた、稀有の精神科医であったということを、知って、私は痛く、感銘を受けたのでした。
これが、本物の、精神科医、というものや、ないか?
今年の私のrevolutionの一つは、今は亡き、下坂先生のご著書との出会いでした。私が、知ろうともしなかった「精神科の重要領域がある!」
いわゆる、「パーソナリティ」の、領域です。
夢中で、先生の本を、読みました。
しかし、「和顔愛語」について、まだ、私の理解は、うわっ面で、口先だけのキレイゴトにとどまっていました。
琳派の画家たちも、カワイイものが、じつは、大好きですが、六角堂にも、カワイイ、仏様(羅漢さま)たちが、いらしたのです。

羅漢とは、仏の教えをきわめた、お弟子さんたちやそうです。
牧谿など、中国古典の絵画では、たいてい、どれも、気味のわるい、老爺の像で描かれていますが、わが六角堂では、カワイイ、羅漢さまたちです。
ほとけの教えを守って、和顔愛語する、十六羅漢のとなりには、ほとけのおしえに、耳をふさいで、こころのねじ曲がった「邪鬼」がいるのだそうです。十六は、四方八方ということで、いたるところ、という意味だそうです。
至るところに、羅漢あり、邪鬼がいる。

私は、ここで、天啓のごとく、ああ、これは、厳しい、克己の言葉だったのだな、とはじめて悟ることができました。
口先だけ、和顔愛語といってみても、だめで、じぶんが、邪鬼に陥らないよう、常づね、どんなときも、和顔愛語を実践できるか、じぶんを試す、厳しい戒律のようなものなのだ、と初めて、悟りをえたのです。
私は、たやすく、邪鬼に、転じていたのではないか? もともと、意地悪な人間だし。
そう思って、きょう(9/29)の診療から、じぶんがどれだけ、和顔愛語を守ることができるか、こころを入れ替えました。私は、にんげんとして、至っていなかったなと、すなおに反省しました。
いばらない。
自慢しない。
おこらない。
きびしいことばかり、言わない。
少語して、多弁を慎む。
言い過ぎない。
相手の「甘え」を、じっと黙って、うけとめてあげる。
このほとけの教えを、実践していこうと、こころに誓いました。ある人に言われた、私の「未熟性」といったことは、これかも知れない…。
じぶんを甘やかすことなく、毎日、修行していこうと思いました。
この人に会うと、あんしんできる。
ほっとできる。
そんなきもちを、他人にもってもらえるような人に、なろう。
(「先生に会うと、いつも、ほっとします」といってくださる人は、私には、たしかに、いくらもいます。しかし…)
しかし、それでも、私はまだ、至っていませんでした。
オトナの常識では、対処しきれない、しかし、真摯に救いを求めている、人の声が、あるのです。
それを「甘え」、「常識以前」と、断じ去るのは、たしかに、簡単です。
私も、ずっと、そう、考えていました。
こんな、赤ちゃんみたいな連中、相手になんか、していられない…。
しかし、一考が。
一考が、必要な、ひとというのが、この世には、けっこう、たくさん、「層をなして」、あるのです。
事実として、ひとの世のかなしみとして、そういう人たちの存在が、確かにあるのです。
どんなに、腹立たしく、思ってよい権利が、こちらにあろうと、「北風」ではなく、「太陽」のこころもちで、接さなければ、けっして、感応しない人たちが。
…
対人恐怖。「ひと」というものへの憎悪。
強い自己否定。「かなうものなら、いつでも、早く、死んでしまいたい。いったい、この世に生れて来て、これまで、いったい、何の意味が、あったであろうか?」
ひねくれ(素直になれない)。頭ごなしの命令には、それが、いかほど正しくとも、すなおに、「ハイ」とは、どうしても言うことができない。
ストレートに自己の「問題」に、向き合うことが、「現実」を直視することが、どうしても、できない。じぶんの、弱きこころに「鋼鉄の鎧」を、かぶせて、いつ不意に襲ってくるとも、限らない、他者からの「攻撃」を、かろうじて、防いでいる。
背景としてある、親からの(特に母親からの)、絶対的愛情不足。
終生つづく、親へのこだわりと、ねぶかい愛憎。
「愛」が、のどから手が出るほど、欲しいのに、つねに、屈折したかたちでしか、言い表せない。
社会人として、きわめて未熟な「コドモ」なのに、プライドだけは、とびぬけて高い。口だけ達者。
…で、まとめられるような人。
なるほど、私も、年をとりました。
こんな考察をするなんてことは、今までに、けっして、なかったことです。
しかし、世の中には、なるほど、いろんな人が、あるわけです。
この世に、くるしみは、尽きません。
…
私も、巡礼の旅に出てみようかと、かなり真剣に、思っています。
⇒西国三十三所巡礼の旅