医者の「しごと」って、なんだろう?
こんな質問を、してみましょうか…。
「ええと、それは、やっぱ、もう、アレでしょ? ああして、こうやって、だーっと急いだり、ばーっとやって、クールなんだけど、ホントは優しくて、ふう~、みたいな…。これで、答になってます?」
(笑)
こそあど言葉と、擬音語・擬態語が、満載ですが、たぶん、テレビドラマのイメージ、なんでしょうね。
看護学校で、高校生の延長のような、うら若き女子にも、精神医学を教えているので、わかるのですが、上記のような答が、じつは、多いのではないでしょうか?
…ようは、よくわからないんでしょうね。
きょうは、少し、まじめに、ゼロから、考えてみましょう。
医者のしごとって、そういえば、何も生産しないんですよね。物品を消費することはあっても、なにか、新しく生み出す、というようなことはない。
人とふれあう仕事だから、ぬくぬくしたものがありそうですが、人は、さいごは、所詮、死にゆく存在ですからね、むなしさも、強いしごとです。
要は、死にいたるまで、現世にとどまっている、人というものの、健康、ないし病気、という状態について、「評価」するというしごとを、している。
そのために「情報」を集めている。訊いたり(問診)、見たり(視診)、感じたり(触診)。分析して、総合的に、判断する。
「情報」を集める際は、時に、おおがかりな、最新鋭の「検査」があったりして、せけんの人は、たいてい、こういうところで「おお~」と、びっくりしていたりする。
だけど、そういうのは、いわば「めくらまし」でねえ…。
医者のしごとの、本質は、そうやって、集めた色々な「情報」を整理して書く、「カルテ書き」にあるのです。
だからこそ、インテリのしごと、といえる。
なんといっても、「物書き」なんですからね。(笑)
外科医のばあいは、絵も描くからねえ、芸術家のしごとでもある。手先が器用で、縫うのがうまいから、仕立ての職人でもある。えらい。
内科医のしごとは、この300年あたりは、からだの、全体ではなく、ここなら、ここと、具体的な場所をさして、いったい、どこに、病気の「主座」があるか、それを突き詰めることにあった。
局在論といいます。
患者から、ふんふんと、話をきいて、症状をみたら、肝臓に何かあるんだろう、イヤ、これは、肺だよ、なんてやる。
で、その人が死んだら、解剖をして、病巣をさがし、予想が当ったか、それとも、外れたか、検討する。
いまは、患者が生きている内に、レントゲンや内視鏡、病理検査などで、それができるのだから、すごいものだ。
イタリアのモルガーニという偉い人あたりから、始まった伝統だそうです。これは今も変らない。世界一の医学雑誌、The New England Journal of Medicineは、百年以上つづく、臨床病理カンファレンスを、定期的に連載しています。
⇒The New England Journal of Medicineこうやって、医者の目は、ヨリ、人体の臓器、組織へと向けられるようになった。臓器別に、専門の医者がわかれ、「全体性」「人間性」への考察は、いわば、どうでもよいものになった。
医者の症例報告には、作法があって、
①年齢、性別
②身長、体重
③今回の発症の流れ(現病歴という)
④既往歴
⑤家族歴、職歴、生活歴
⑦意識状態、血圧、脈拍、呼吸状態、体温(バイタルという)
⑧採血や心電図、レントゲンなどの各種検査結果
⑨診断
⑩治療方針と、この順番を、かならず守る。
これは、医者と患者が、診察室で、向き合って、おこなった診察を、紙の上に「再現」したものといえます。だから、順番が守られないといけない。
サテ、ここで、気づくことが、ある。
それが何か、といいますと、患者の「顔」が、のっぺらぼう、だということです。
臓器別に専門分化された内科医のしごとを、突き詰めると、患者の「顔」なんか、どうでもいいのです。美人やイケメンの患者なら、なるほど、うれしいかも知れませんが、しごととは、直接関係がありません。
「患者は、うら若き、目のさめるような美人!」とか、もしカルテに書き込めば、「先生、マジメに仕事してください」と、看護婦さんから怒られてしまいます。
しかし、そういうことを、カルテに堂々と記しても、叱られない医者が、ただ一種類、この世にありまして、それが、精神科医です。
精神科カルテでは、内科や外科のカルテでは、あるかないか、あっても、ごく薄い、上記②⑤の記述が、極端に肥大化しています。
髪型、器量のよしあし、化粧、服装、もちもの、歩き方、人に接する態度、話し方、声の大小や特徴、顔付、見た目から推測できる性格、趣味、品のあるなし、話し方から推測できる知能の程度、学歴・職歴から推測できる「人間力」の程度、家族歴から推測できる遺伝負因のあるなし…
…と、ここまで、ズケズケ訊いていいのか、容赦なく記載していいのか、バッサリ決めつけていいのか、と、ふつうの人なら、一瞬、ひるんでしまうようなことを、精神科医は、ぬけぬけと、カルテに書いていきます。
だから、一種の「精神的態度」というものが、精神科医には、要請されます。
といっても、ふつうの医者の態度と、大きく変るわけではありません。
それは、ものごとを「ありのままに見る」ということです。
臓器のかわりに、患者の「人間性」ないし「人生」をありのままに見ます。上げもしないし、下げもしない。
リアリズムといえましょう。「現実」の正確な再現。思弁の排除。これが近代医学の精神です。最近亡くなった、作家の渡辺淳一が、深刻ぶった文学や哲学の、ぎろんなんかに、ビクともしなくなったのは、医者になったおかげであると、時どき語っていますが、私には、それが、とてもよくわかります。
情で「レンズ」をくもらせることは、禁物です。
にんげんには、ついつい、道徳的感情にながされて、見えているのに、見ないようにしてしまう、自己欺瞞の悪癖があります。
「道徳」の視野から、自由になれる、精神的態度を養ううえで、フランスのモラリストの智慧は、有益ですね。
或は、辛辣なユーモアのセンス。
もちろん、にんげんが、にんげんを評価することには、「主観的かたより」が、避けられないかも知れません。「上から目線」であり、尊大であり、倨傲であり、或は、人間失格? かも知れません。理窟としては、たしかに、そうです。
しかし、人物評価が、比較的公正で、バランスがとれている、きけばなるほど、うまく言う。そういう人って、おりますでしょう? 名高い文筆家にかぎらず、世間にも。ふつうに、あなたのまわりにも。
そういう人が、精神科医には、向いてますね。
…といえば、ご納得して、いただけますでしょうか?
手きびしいことや、ドキリとするようなことも、ずばり書いてあるが、読むと、その人の姿が、目にうかぶように、よく想像できて、実際に会ってみれば、なるほどな、とうならせるような筆で、患者の人物を、書いてあるのが、「よいカルテ」です。
精神科医のカルテは、いわば、絵具やクレヨンの代りに、言葉をつかった、人物デッサンで満たされたクロッキー帳、といえましょう。
私が尊敬する、笠原嘉先生は、カルテをきちんと書けば、書くほど、精神科医の腕はあがると、述べていて、それは経験上、真実だと思います。
そういう意味で、前回に申しましたように、「文才」は、精神科医に欠かせない資質なのだと、思うのです。
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医者は、いっぱんに「先生」と呼ばれることがおおいのですが、学識があって、生徒の一人ひとりのことををよく知っていて、なんらかのアドバイスを与えるという点で、「学校の先生」に、医者は、職分が、最もよく似て、重なっています。
じっさい、ドクターとは、「おしえる人(教師)」という意味です。
…ご存知でしたか?
観察は、辛辣でも、治療は、その人その人に合せて、保護的に(道徳的に)しないといけない。はげまし。ほほえみ。勇気づけ。
和顔愛語。
こういう点でも、精神科医のしごとは、学校の先生のしごとに似ています。
ことばは、人を傷つけることが多いので、私は、代りに、よく笑うことにしています。笑ってふゆかいになることは少ないですからね。
しかし、この世には、ほんとうに、いろんな人がいます。みんな、似たようなものだなんて、とんでもない。最近、そのむつかしさを、噛みしめています。
きょうは、精神科医のしごと、その本質、ということについて、お話しました。