ブラックジャックについて詳しくはこちら>http://www.ytv.co.jp/bj/

 あらすじ:生まれつき心臓か何かの病気を抱えた少年がいて、彼には外国にチャット友達がいた。ネット越しなのをいいことに、運動ができないくせに野球で大活躍したとか大ボラ吹いてたら、その友達が日本に来ると言い出した。このままでは嘘つきになってしまう(いや、すでに嘘つきだよね?)と思った少年はブラックジャックに手術を依頼するのだが、例によって高額な手術料は払えない。

 手術ができなければ自分は嘘つきになる(いや、だからもう嘘つきだよね?)と思った少年は、嘘がばれないように外国のチャット友達と強引に絶交してしまうのだった(おいおい)。ところが、そこへ謎の外国人社長が、少年の手術料を肩代わりしてくれる、というオイシイ話が転がり込んできた。その社長は目が見えないのだが、自分の視力回復のための手術料を少年のために使ってくれ、ということだった。その外国人社長とは、もちろん少年のチャット友達なのであった。

 その友達も、実は目が見えないのに見えるフリをして、チャットで会話していたのだ。お互いの事実を知った二人は、「お前が手術しろよ」「いやお前が・・・」みたいな展開になり、二人の友情に心を動かされたブラックジャックは、二人とも手術することにしたのであった。めでたしめでたし。

 それで、今回おかしいなぁと思ったのは、相手の外国人の友達は、目が見えないのにどうやってチャットしてたのかな?ということ。目が見えない人専用の点字キーボード&ディスプレイでも使ってたのかな?それともチャットの文字を音声に変換するソフトを使ってたのか?でもテレビ見てる人がそこまで解釈してくれるかな?

 そんなことを考えたのは僕だけじゃないはずだ。
 悟りは、無限に続く螺旋のようなものだ。平面的に見ると、同じところをぐるぐる回っているように見えるが、立体的に見ると上下の広がり、深さと高さがある。感覚的には全く新しいことを感じたとしても、それを言葉で説明すると、以前と同じような内容になる。それは言葉の制約であり、悟りが繰り返されたわけではない。悟りは新しい視界を切り開く。言葉は過去を繰り返す。
 今日のケロロ軍曹は、いつになくパロディが多用されていた。ガンプラネタは毎回のことだが、今回はエヴァンゲリオンネタが多用されていた。刑事物語も少しだけ出ていて、ケロロ軍曹がハンガーを振り回しながら九州弁を喋っていた。やっぱりこのアニメの本当のターゲットは30代に違いない。

 ラスト近くに登場した、「天使の羽を生やした巨大綾波レイ」の声が、本物の(?)綾波、つまり林原めぐみにそっくりだったので、「まじ?」と思ってエンディングで声優の名前を確認したら「榎本温子」になっていた。誰?

 榎本温子オフィシャルサイトで彼女の素性を調べてみた。たくさん仕事してるなぁ。ゲームやOVAの仕事が多いようだ。テレビの仕事もしているけど、僕が見る番組とはかぶらないものばかり。そりゃ知らんはずだわ。当然ながらオフィシャルサイトにも今回のケロロ軍曹出演について少しだけ書かれていた。

 僕は目が悪い分耳がいいので(なんでや)声優の声を聞き分けるのは得意なほうだと思っていたが、今回の綾波にはだまされた。
 視野が狭いと、生き辛い。視野が広がるにつれて、生きるのが楽になる。

 仕事でもそうだ。最初のうち、ごく末端の仕事をしている間は、自分がしている作業の位置や意味はわからない。仕事の範囲が広がるにつれて、それまで自分がしていたことの意味や、全体の流れの中でどんな位置を占めていたかがわかるようになる。把握できる範囲が広がるほど、細かいことは人に任せて、それぞれの仕事のパーツを組み立てるだけで、仕事を動かせるようになる。

 人生でも、これと同じようなことが言える。視野が広がるにつれて、人生全体における自分の現在位置や、自分にできることと、やりたいことのバランスが見えるようになる。視野が狭いと、今の自分が置かれている状況の意味がわからない。目の前にあるものだけで人生全体を判断してしまう。どうして自分がこうなったのか、ということが見えない。そしてわけがわからないまま、いわゆる「運命」を受け入れて右往左往することになる。

 人がこの地球上で暮らす生き物である以上、全てを自分でまかなうことはできない。たとえ、人里離れた山奥に篭ろうとも、山や川や、木や草や、他の生き物に頼らなければ生きてはいけない。宇宙空間に放り出されれば完全に一人だが、それではすぐに死んでしまう。「人は一人では生きられない」というのは、そういうことだ。むやみに人を頼れということではない。

 わざわざ頼ろうとしなくても、誰かに頼らなければ、他の命に頼らなければ、何かに頼らなければ、人は存在することもできない。人だけでなく、全ての存在は、他の何かに頼っている。存在すること自体が、他の存在に頼り、迷惑をかけている。その迷惑の連鎖が、この世界を成り立たせている。全てが関わり合い、影響しあうことで「存在すること」を可能にしている。誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけないで生きることなど不可能だし、意味がない。

 自分の力で生きているというのは単なる思い上がりでしかない。生きることは自分の力ではない。生きることは自分の役目ではない。生きることは、この世界に任せてしまえばいい。その上で、自分のやりたいことをやればいい。生きることが、命が信じられないから、自分の力で生きようとする。命を信じれば任せてしまえる。任せてしまえば、生きるのは楽になる。あとはやりたいことをやるだけだ。
 言葉や思考は平面的だが、現実は立体的なものである。言葉が捉えるのはあるものごとの一面であり、全体ではない。三角錐のようなものを見るとき、言葉はその立体の投影である三角とか、円として捉えることしかできない。しかし立体的に見ればそれは三角錐であり、三角も円もその形の一面である。ところが言葉は一面ずつしか捉えられないので、三角と円が同時に成り立つ図形などないと思うし、理解できないのだ。それが平面的ということである。

 私たちの表現や思考は、その性質上、どうしても平面的なものになりがちで、それが様々な問題を生むことになる。自分の考えを他人に伝えようとするとき、言葉の制限はとても大きな壁となって立ちはだかる。しかも言葉の習熟度は人それぞれなので、同じ事を喋っても伝わる相手と伝わらない相手がいる。

 言葉は人間生活にとって必要な道具なのだが、それを本当に使いこなすには、言葉の性質を熟知していなければならない。一番ややこしいのは、言葉と心が見分けのつかないほど癒着していることだ。言葉なしでは心が活動できないほどに癒着している。というより、心のほとんどを言葉が占有しているような状態だ。

 心は言葉がなくても生きていられるはずだが、私たちはその可能性について全く思い及ばない。言葉がなければ心は不安定になり、破綻すると思っているようだ。けれどもそれは言葉と癒着しているが故に生まれる妄信である。人生の表面でしか生きられず、深みを知ることができないのは、その本質が平面的である言葉に溺れすぎているからではないだろうか。