耐性 | 孤高の狼といふ者の旅日記

孤高の狼といふ者の旅日記

自身3度目のブログ。昔気質な性格故に、雲の流れの様に身を任せる事が中々できないのがもどかしくも、そんな己が心身の鍛錬と共に、思う事、起こった事を淡々と綴る。全てを捨てた漢の流離いの先にある心の美醜とは!?

自分の第二の故郷である福井に戻ってきて思うこと…


第一声は「涼しい❗️」に尽きるが、ふと落ち着いて考えると「耐性」のことが脳裏を離れない。


どういう事なのか、徳島県那賀町は木頭地区で過ごした日々を振り返りつつ綴る。


徳島県の山奥で過ごすこと6日間。


実のところ、その内の4日間の夕刻以降は熱中症となった我が身を冷やすことが一番だった。


5日目も、かなり暑い日だったが、それまでの日と決定的な違いがあった。


それは「」。


わたしは10年前に旅を開始して以降、自らのことを風来坊だと思っているが、その風来坊に合うような風が山間にある木頭地区にも流れていたのだ。


故に、その日の作業はいつになく捗った氣さえする。お陰で、柚子のトゲで身体中が傷だらけにもなったけど、熱中症の頭痛なんかに比べたら可愛いもの(トゲも腕の中に刺さってた💦)。


そして最終日は、天の計らいもあったのか、古民家の掃除などを一通り済ませ、福井に戻ろうと車に乗った矢先に雨が!


滞在中に火照りに熱り、疲労困憊にあった我が身を、このタイミングで冷やしてくれるとは…


内心、「この我が身を福井の母の元に送ってくれる事は確約された」と感じたもの。


故に、木頭地区から徳島市にある高速道路に至るまでの約2時間に渡る田舎道、そして目前の大雨の存在さえも自分には快適なものでしかなかった。


実質、木頭地区における剪定作業は4日間だけだったが、わたしにとっては己が限界や仕事への熱意、ご縁をいただいたこの田舎における困りごとを遥々、福井の地からでもワザワザ手伝う理由を幾度となく考えさせる契機になったもの。


そんな滞在2日目の夜は、地域の方々を交えて、バーベキューする機会があった。


その時、わたしが話す機会をいただいた方のお言葉に「この地域も独り身の高齢者が多い。でも、ここの人たちは(高齢であっても)何でも自分でこなされるなど生きる力が強い」と。


つまり、耐性であったり、免疫力のことだ。


現に、わたしが滞在させていただいた古民家は昭和時代のそれに近く、隙間だらけで、夜には室内の灯りに群がる虫との付き合いがごく普通の世界。


今回、別の車で向かったメンバーが三人いたが、彼らは一晩の体験で懲りて、2日目の夜には近くのシッカリした家屋で寝ることを選択。


わたしにも、その誘いはあったが、「今後も滞在する自分が、(今回、貸してくれた)この古民家を嫌だと言ったら、ご縁をいただいた上に温かく迎えてくださった、この地域の方々に申し訳ない」との思いからヤンワリ断った。


それが出来たのも、やはり全国各地の山やら野原の中を一人でテント泊してきた経験があるから。


…とはいえ、滞在4日目の夜に出現したコヤツには、自分も秒速で反応してしまった。


それがコレ↓


オオゲジで、足までの体長はゆうに10cmはあろうかという大きさ‼️


普通のゲジゲジは、何処でも見るだけに、そんな違和感はないが、コレにはちょっと肝を冷やしたもの😅


まぁ、益虫なのと、当の本人はそんな事でビクビクするよりも、熱中症による熱りを冷ますことの方が一大事だったから、爆睡😪


そんな出来事しかり、炎天下での作業を終えてからも、水風呂に入ったり、夕飯を作ったりしてたら、一日なんてアッという間である。


流石に、世の高齢者に自分のような無茶をされる方はおられないと思いますが、それでも町とこんな山奥の村での生活リズムは大きく違うと感じたもの。


仮にテレビが、この田舎にも有れば、天候に応じて居間で過ごすなんてユトリもあろうかと思うが、今回は無い。


その上、福井の居場所でもある地とは違って、ちょっとした距離に大きなスーパーや食堂がある訳でもないのだ。JAや個人商店もあるが、コンビニやドラッグストアの存在を知る者からすると品揃えは絶対的に少ない。見方を変えれば、必要最低限の物はあると言える。


故に、わたし自身も久々にお金をほぼ使わないという時間を過ごさせていただいた。


ただ今回は毎日が熱中症との戦いのような日々だったからか、何が嬉しいのか、ありがたいのか、強いでは生きるとは何なのかなど、どうでも良くなっていたのも事実。


でも、そんな状況下にありながらも、純粋に「生きる」とは、自らが「口にする物を確保すること」なのだと思ったもの。


その為に、作物の管理をしたり、水を確保することが、日々の暮らしの最も大事な行動になる。


となると、完全な自給自足的生活を実現とあらば、環境が整うまでは途轍もない努力や智慧も必要とする…とは、自ずと想像できたものだ。


便利な物が溢れかえっている現代においては…

・そんな生活感の何が素晴らしいの?

・人もあまりいない自然の中で満たされるの?

・怖くない?

等々、それこそ挙げる方が項目が多くなりそうだが、そんな中でもわたしが思うのは…


この母なる大地にとって、(その便利な物の存在は)どうなのか?」に尽きる。


今では、マイクロプラスチックの存在や危険性まで科学的証明がなされてきているが、結局、それらの弊害を我々人類が「快適さ」や「楽しさ」という欲にとらわれて、自分たちが生み出したということになる。


こういった情報を、人は耳目にすると自分の都合の良いように解釈する。


もっと言えば、決して悪気はなくとも、生きる上で「この世は広いのだから、わたしのやっているコレ位は大丈夫」と。


その点については、これまでの自分のポリシーでもある「マザーアースのため」としている自分も当てはまる事を痛感する。


自分がこの世に生を受けて、何とか生きようとする中で、知らず知らずのうちに自分の心身の逞しさを弱くしているとも…。


つまり、人としての耐性や免疫力を下げているのが、現代の地球の姿なのだ。


そんな事を、福井の母のもとへ無事帰宅した暁には、自分の徳島行きで感じた事として話していたもの。


その我が手には、各地のプラスチック類で包まれた名物があるのに…である。


でもね、ここに触れた事を真剣に考え、今の社会の中で貫き通そうとすると、周囲との軋轢が生まれるのも現実なんだよね。


そう思うと、ふと自分の思いにも疑念がわく…。


おいそれと「自分のポリシーはマザーアースのため」と言葉にする資格があるのか?


それと同時に、移り変わり続ける地球環境の過酷さの極みを本当に受けるのは今の我々ではなく…次世代以降の子孫なのだ(もちろん、自分達も既に受けているが)と戦々恐々とする自分がいる。


こんな事態を考えても、今に生きる人々は見て見ぬふりをするのだろうか!?


そんな気付きを、徳島の山奥にある清らかな水の数々を眺めて得られたことに感謝である。


こりゃ、てへんだ!と思う気持ちの方が大きいけどね…


*はぁ〜、何て綺麗な川なんだ…❗️毎日、この流れをただただ見ていたいもの。


*今回は荒れた柚子の木の剪定だが、こんな風に中央は光が入っていないものが多い。


*剪定後の木。中央にまで光が入りました!


*木の下も空気の通りをよくします。


*木頭地区を川の向こう側から撮った図。柚子だらけです。


*福井への帰りは、ちょっと別の道を。久々にTHE四国という雰囲気を存分に楽しませてもらいました。


*えぇっ!?警告灯がイキナリ❗️しかも、メーターは‼️無事帰れたけどね。