去る月の過ぎ去りしこと神速の如しで、世は早くも4月。
わたしが目にする機会は無いが、入学や入社、新年度などと新たなる挑戦の節目となる頃であろう。
この地の桜もついに満開、大地にも緑が少しずつ増えていく。
(レイ🐕の散歩コース。色々な種類の桜が見れる贅沢な場だが、住まいから直ぐのところとは贅沢なる縁だと思う)
そんな光景を見ると、往時のような春の訪れを痛感するのかと思いきや、意外にも自分の脳裏には来たる酷暑との闘いをどうするのかという思いの方が強い。
今を愉しむ…
そんな精神が、いつしか翳りを帯びたことに危惧を覚えると同時に、そんな我が身に何が起きているのかを追究したくなってきた。
だが、それはせぬ。
意固地になっている訳ではなく、この状態もまた、自らの歩みの一環だから。
ホンの少しばかり、散り落ちた花びらに眼差しを向け、また繚乱たる景色に目をやる。
若さとは武器でもあり、時に脆くもある。故に誰が、何が、何をもって、導くのか!?それが肝要である。
…とは、古今東西、普遍の真理。
だが、今の世は叱りや怒り、はたまた昭和世代までは身近だった根性論というものを口にした段階で、そっぽ向いてしまう。
そんな風潮を目の当たりにした時、自分は今日まで何をしてきたのか?と懐疑的になりかける。
そして、それこそ「(そんな思考に陥りそうになる自分が)面倒くさい」と感じるようになってきた。
物事、最も面倒くさい事からやる…とは、自分のポリシー。
それを変える氣はないが、先の面倒くささ(諦めともいえるか!?)を感じてしまった事で、目前の取組みまでもが、そんな思考に染まりかける。
体調が優れぬということは、思考にも惑いを生ずる。
そして、ひと度、惑いを生むと、その惑いを自戒や自律、節制でもって何とかしようとするが故に、ますます面倒くさくなる。
もう、ヤメる。
何をか?
それは…、「自らが望む」こと。
よく考えれば、これ自体が最大の欲。
(物への欲は元々薄いが、)
いまでは事(=事象)に対しても、素直に寡欲で在りたしと思う。
こんな心境の変化は、自分にとっても、かなり大きな出来事かもしれない。
思えば、今から12年前には全ての私物を捨て、自らが望む望まぬに関わらず、目の前に訪れる全ての事象に立ち向かうという、正しく背水の陣を自らに課した。
次には、旅を経て得たこの地のご縁のもと、(望みて)粉骨砕身で諸事に臨むとし、挑戦&克服。
そして、此度は望まぬと。
そんな心境で歩む道とは如何なるものなのか…。
大昔でいう隠遁のようなモノ?
それさえも未知数だが、可能であれば「自分という漢を(自分自身が)受け容れる」ことが、どの様なものなのか、それだけは知ってみたいもの。
週末の天候は荒れるという。
ならば、この山奥に佇む花吹雪を浴びて天に問うてみようか!?
(ここは女将の亡き茶道の師匠宅の庭。モクレン、ツバキ、水仙、河内桃などと正しく、百花繚乱の場。自分にとっては、他のいすれの名所にも勝る憩いの地。来年の同時期には、一人で野点に興じてみようか等と思ふ時の経過が愛おしい🍵)
◎
ついぞ呟きたくなる、この詩(百人一首)。
春の夜の夢ばかりなる手枕に
腕(かひな)く立たむ名こそ惜しけれ
この歌を今の自分の状況に当てはめてみると、意外にシックリくる。
【今の自分の右腕は剪定などの為に上へ伸ばそうとすると、上腕二頭筋が重い。その怠さが作業の手を幾度も休めようとさせるが、そんな事で自分のやる気を失わせたくない。日中はそんな事を思いつつ使っているが、夜は我が右腕に「オレの腕よ、今日もありがとう!また力を貸してくれ」と感謝しつつ手枕に】
(ニ、三年前の徳島の山奥での作業後の腕。この12年、何かと過酷な作業にも役立ってくれたもの)


