…という事を、私は旅をした12年前から、色々なシーンで考えさせられてきたと思う。
街住まいだと、子供を産み育てるとか、ペットを飼って育てる、野菜を育てるといった事を通して学ぶというのが一般的であろうか!?
だが、自分は生かし活かす、そして殺める(絞める)や朽ちさせることを知る機会を得てきた。
そこには、生命の大切さだけで一括り出来ない複雑さがあるのも事実。
でも、それら全ては生命の循環が根底にある。
至極簡単なことで言えば、生あらば死ありというシンプルな事実を受け入れるか否かだけ。
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今は梅雨なのか、夏の盛りにあるのかという時。
世の稲作りは、苗植えはとうに終えて育つのを眺める時期でもある。
だが、ここでは中学生たちに植えてもらった苗は水没により消えてしまったので、新たに植えようとしている。
それも、商売という世界では罷り通らない方法だが、自給をしている私たちだからこそ可能なこと。
そして、通年湛水のお陰でヌルヌル状態になっている田んぼの底に一本一本丁寧に植えていく。
(暑すぎて、いつしか赤い藻がいっぱいに💦急ぎ、山水を多めに取り入れるなど、環境整備し、新たな苗も植えた)
この時の姿勢はかがみ込む状態(中腰)なので腰にくるが、その苗植え作業は時の経過を忘れさせる。
何故だろう?
この苗は、去年収穫した籾を溝に適当に撒いておいたものが、芽を出してくれたものである。
そんな逞しく育ってくれた苗を、溝から広い田んぼへと解放する。
そして、無事に定着さえすれば、あとは収穫を待つだけ。
定着しなければ、その苗は深い水の中で朽ち果てるが、この田んぼの中では次なる栄養素として活かされる(生命の循環)。
そして水がある中、手探り状態で田んぼの底に植えるという事は、手先で大地の形状を確かめようとする。
凹んでいれば、同じく手探りで周りの泥を寄せて苗が定着しやすいようにする。
見えない水面下の世界を手先の感覚だけで掴む必要があるのだ。
故に、その作業中は否応なしに神経が研ぎ澄まされる。
時には、アメリカザリガニや蛙、サワガニらしき物が手先に当たって「何やろ?」と作業の手が止まることも。
そういう経験をすると、目が見えない方でも別の何かしらの感性が磨かれて、それを活かしつつ生きておられる事も容易に想像できる。
そういう経験こそが感性を磨く事であったり、相手の状況を察する心を育むことに繋がる。
もっとも自分は大地の息吹きを聴覚で感ずることはできぬ。
だが、私の場合は嗅覚と肌で感じることができる。
鶏を飼っていた時にも、そんな彼らの行動を見て、色々学んだもの。
そして、その場に偶々来られた方には何をとちってか、鶏の生態を語ったり、産みたての卵をあげちゃったりしたもの。
だが、当の本人は、そんなお相手のことはどんな方だったかも全く覚えていない。
一期一会。だからこそ、笑顔で挨拶し、その場に必要なことに全身全霊で臨む。
そんな生き様を、街のような雑踏となる場で実現するのは気苦労も伴うだけに、なかなか難しい。
でも、それが出来る場を私は自らの足で探し、この地で出来ることを為すことで磨いてきた氣がする。
生命とは、人やペット、家や畑で育てる野菜だけではない。
道路の割れ目から生える雑草しかり、
この季節なら、自分の頭上で飛ぶ無数の小さな虫も、
水の中でうごめく生物も、
全てはマザーアースに生きる物。
その生命に甲乙なんてあろうや!?
それを肌身をもって理解している者がどれほどいようか?
おそらく居ない筈。
それだけで、自分は未熟だし、学びの要素が幾らでもあることになる。
その上、目には見えぬ奥深い精神世界もある。
などと考えていくと、この世に生きるって素晴らしくもあるし、ネガティブな見解でいうなら、何と大変な!ともなる。
だが、何れにせよ、己が内面を清く磨き続けていれば、目には視えぬ世界にも手が届くような事象に接することは幾らでもあるように思う。
だから、私は旅を開始した時に精神の在り方として肝に銘じてきた(水五訓の一節である)「自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり」を継続していく。
そして、それにより引き寄せるご縁を愉しむユトリを持ちたいもの。
その点、今は暑さから逃げられぬ身とはいえ、先のご縁もあってか、我が身を少しは癒やしつつ日々を過ごせている。
これまでに扱った生命の存在までもが、自分の心身を癒やす手伝いをしてくれてるのかな!?
ありがとう!母なる大地よ。
(近隣の温泉施設から、軽自動車用と障害者用駐車場を描いてと依頼あり。油性塗料を剥がしたり、大きな字を描く工夫を学んだりと良き経験👍)
◎
*自分の好物でもある栗🌰。だいぶ前に植えたものだが、初めて実をつけてくれた。
*近隣のばあちゃん家の庭園もツツジの剪定で大忙しですが、少しずつ、本来の美しさを取り戻しつつある。亡きばあちゃん達、祖霊に恥じぬ形であろうか!?



