前回(↑)の続きです。





(エブリスタより)

 母に自分が韓国人だと言われた日から程なくして、母に色々訊くようになった。

 当時母は専業主婦であり、私が保育園から帰って来たときは大抵、台所に立っていた。


「ねぇねぇ、おじいちゃん達ってどこから来たん?(⁠・⁠∀⁠・⁠)」

「どうやって来たん?(⁠・⁠∀⁠・⁠)」

 こう質問する私のこの時の感覚は、「どこから産まれてきたの?」と訊いている時のそれに近かったと思う。
 (ちなみにそう訊かれた時の母は、幼児がイメージし易いような秀逸な答えを返した。)


 祖父母達が何処からどう来たのか、そう訊く私に母が一瞬困惑する顔を見せたのを覚えている。(記憶違いかもしれないが)

 幼い子にどう伝えたものか、どこまで伝えたものか、やっぱりまだ早すぎたと思ったか…或いは何か嫌な事でも思い出したのか。その瞬間の胸の内は、本人にしか分かるまい。

 そしてあまり間を置かずにこう答えた。


 「おじいちゃん達はね、日本に働きに来たんよ」

 「昔ね、韓国から日本に渡って来たんよ」


 保育園児の頃の私は、親や保育園の先生の答えに対して、いちいち疑問を持たなかった。答えをもらった時点で満足していたように思う。

 そしてそんな事は忘れたかのように、テレビにかじり付いてお気に入りの特撮に見入るのである。まぁ、子供だといえば子供か。

 とはいえ、今こうして書いているように、その後もしっかり覚えている訳で。






 そして小学校に上がり、何年生の時だったか正直覚えていないが(多分3年生)、私は祖母に訊いた。(この時点で祖父は既に他界している。)


 「ばあちゃん達はいつ日本に来たん?(⁠・⁠∀⁠・⁠)」

 「ばあちゃん、20歳の時に来た」

 「どうやって来たん?(⁠・⁠∀⁠・⁠)」

 「ばあちゃん、じいちゃんと一緒に舟乗って来た」
 「大きいじいちゃん達のとこ行って、それから皆で九州行った」

 「……何で日本に来たん?(⁠・⁠∀⁠・⁠)」

 「ばあちゃん達、貧乏やった。ばあちゃん学校いけんかった。ばあちゃん字分からん。やけ、じいちゃんと日本働きに行った。」

 「そうなん…(⁠˘⁠・⁠_⁠・⁠˘⁠)」

 質問しながら、何とも言えない気分になってしまった。


 祖母の話の内容はこうである。

 ・祖父母達の家は貧しかった。祖父達(男)は日本で言う小学校は何とか行けたそうであるが、祖母達(女)は学校に行く余裕が無い程だった。

 ・日本に行く事を決め、まず最初に祖父の兄夫婦が朝鮮半島から日本列島に渡る。

 ・祖父の兄夫婦が住処と仕事を得て、弟である祖父を呼び寄せた。この時祖母は丁度20歳であり、夫である祖父と連れ立って日本に渡った。

 ・祖母の年齢からして、日本で言う「終戦」より3〜4年前に渡った事になる。(終戦前に日本で生まれている伯父がいる為、確実であろうと思われる)

 ・最初は関西の何処かにいたらしい。何県かは分からない。兄夫婦の元に身を寄せ、仕事を得て共に生活していた。終戦の直前辺りで祖父の下の弟夫婦も日本に渡る。

 ・程なくして終戦を迎える。

 ・更に仕事と生活の場を求めて、最終的に九州に移住する。

 ・朝鮮戦争

 ・九州に移住して後、それぞれ九州圏内の別の地域に移って行った。


 おそらく、京都方面から船で日本に渡り、初めは関西の何処かに居住して仕事を得て、後に九州に移住したのだろう。

 理由は「貧乏」、それに尽きる。おそらく朝鮮では水呑み百姓だったのだろう。



 

 思えば祖母は畑仕事が好きであった。自宅の裏の畑に毎日行っては畑仕事(全て手作業)をしていた。その畑は祖父と一緒に作ったものだそうである。

 自分の土地と家、田畑を持ちたいという憧れと願望は、余程強かったものであろう。実際に土地の安い田舎で土地を買い、(農家とは言えない規模であるが)小規模な農地を持っている親族もいる。

 私の祖父母は工業地帯に近い所に落ち着いたが(祖父は採石場で働いていたそうである)、祖父の兄弟夫婦は最終的に田舎に移り住んだ。
 そこで土地を買い、粗末ながらも家を建てた。特に長男であった祖父の兄は、「己の土地」に殊更強い思いがあっただろうと思う。

 戦中・戦後の時期である事も影響としてあったかもしれないが、最終的にそれぞれが別の地域に移住していったのは、土地への憧れがあったからなのではないかと推測する。








 以前に、実家でたまたま一枚の写真を見つけた。

 祖父が同じ韓国人(又は朝鮮人)の仲間達と野原で宴会(多分花見の様なもの)している写真であった。

 祖父の職場、或いは近くの朝鮮部落の仲間達だろうか。祖父以外は全員知らない人達である。ぱっと見、祖父は40〜50歳位か。


 皆、実に良い笑顔だった。

 日本に渡り、働き、たとえ粗末でも家を持ち、毎日飯が食える。その生活を得ている喜び…それに溢れている。私は自分で勝手にそう解釈している。


(※写真はフリー素材です)