「伊勢神宮とは何か 日本の神は海から・・・」2 植島啓司著 | ReubenFan

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伊勢神宮/Ise Jingu

この著では、伊勢神宮の前のカミ祀りの背景をフィールド調査からアプローチしています。
縄文期、太平洋側は、海洋交通の主幹線であり、すでに東アジアから北海道地区までの物資が交易の対象となっていたようです。発掘される黒曜石やサヌカイト、ひすいなどの遺物、各地の土器が示しています。物資の中継や配送センターもあったのでしょう。志摩はそのセンターの一つとして、伊勢湾を北上した中部山岳地方からの物資を中継する機能もあったことがうかがわれます。

道や橋、トンネルなどない陸上交通に比べ、海上ハイウエイと高速運送業者、交易システムができていたわけです。

 

当然、人々は海からやってきたのでしょう。生活は海への依存から川を通って陸への浸透があったとの見方です。

海が荒れれば人は生活できず、海のご機嫌次第で人の生活は大きく左右されます。海(カミ)に祈ることがまず原点だったのでしょう。東から昇る太陽はまさにカミそのものです。

 

「的矢湾クルーズ」という章があります。著者は船で外洋にでて、湾入口から10Kmi以上の最深部にある磯部、皇大神宮別宮 伊雜宮に向かいます。当然縄文期には、地形は異なっていたのですが、人々は、外洋の影響を受けない湾奥地まで進んだことことを想定しています。

今でも伊雑宮の御田植祭では太一(中国では神格化された北極星)掲げた船の旗が現れます。
この地区には、小さなカミ祀りのの祠や、神籬など信仰の原点がたくさんみられるそうです。

カミ祀りも、海からやってきた人々が伝え、伊雜宮(今とは違う場所かも)から北上したと考えています。 海のカミといわれる猿田彦、日のカミ、伊勢のカミなどが今に続く人々の信仰対象だったのでしょう。伊勢神宮遷宮では、御船代で神体を移すとありますし、瀧原宮など内陸部の神社でも船に関係するものが多くみられます。まさに、船は現代国際線の航空機や高速車両と同様の位置づけだったのではないでしょうか。

神器である鏡は、中国から伝わった技術工芸品、鉄剣は当時の先端技術で作られた最新武器、勾玉は貴重品で現金に相当したと思われます。 これらの最上級品が御船代という当時の強力な交通手段によって運ばれる神社は、先端科学技術センターでもあったように思います。


翡翠は糸魚川上流が主産地ですが日本海航路で各地に運ばれ、出雲大社には糸魚川のものと思われる翡翠の勾玉があるそうです。


また、志摩という地名ですが、福岡県の糸島市にある志摩ともなんか繋がりがありそうです。

 

著書では、7世紀以降の人為政策的な伊勢神宮にはあまり触れていませんが、遷宮や心御柱についての考察があります。

また「サルタヒコとは何か」という章も気になります。

 

・志摩 的矢湾から磯部へ