内宮磐座(いわくら)と呼ばれることもあります。
伊勢神宮 内宮、荒祭宮の北 、600mのところ。人家も近くにあります。
江戸時代までの参宮道で、朝熊登山道が始まるところです。
宇治橋がないころは、こちらが主要道だったのでしょうか。
神宮司庁の駐車場の隣で神宮の所有地なのかもわかりません。
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PS ここにある石の道標が、この場所がかつて 主要道の分岐点であったことを示しています。
・二見道、五十鈴川を下っていくと二見。
かつては、二見から五十鈴川沿いに神宮に向かうのが主流だったのでは。
・朝熊山に上っていく道。朝熊への自然信仰も相当古くからあったのでしょう。
・磯部道、 厳しい逢坂峠を越えて、磯部、伊雑宮に向かう。
峠を越えたところに猿田彦の森があり、天の岩戸と呼ばれるところもある。
伝承では、倭姫命が猿田彦神(太田神)に出会ったところでもあるという。
志摩磯部から伊勢方面に来るルートとして、縄文期まで遡る経路だったのでは。
この地方では、海からの人が入ってきたといわれています。
ヤマトへの贄も山越えの厳しいこの道を通って運ばれたそうです。
志摩から朝熊山を越えて、この地区に入ってくる道だったのでしょう。
磯部側では、別宮とされる伊雑宮が本来のアマテラス、日のカミを祀っていたとして論争。持統天皇が志摩に行幸した時に、伊雑宮から「日のカミ」ブランドを供出させたのかもしれません。
旧石器、縄文、弥生の遺跡が見つかっており、このルートの歴史が古いことがわかる。
この地方では、海から人が入り、文化が伝わったとの考え方に納得がいきます。
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・現場へいくと・・
道路から見上げると、木々の中に巨岩の一部が見えます。
高さが6mはある巨岩をはじめ、巨大な岩が東西方向に並んでいます。
「内宮磐座」といわれていますが、案内図にでてくることはありません。
同様に外宮の「高倉山古墳」も案内図にでることはありませんが。
江戸時代は「岩やしろ」や「岩井神社」として参拝の対象だったそうです。
明治政府は、神宮を民衆の息抜きの場から皇国の原点として位置づけ、大幅に改変しました。
この岩やしろも皇国史観にとって「困りもの」として排除したのでしょう。
そして、現在もこの巨岩群は公的には存在が無視されています。
配布されているどのような案内書にもでてきません。
もし調査で、垂仁天皇後の祭祀の形跡が発掘されると、ヤマトヒメが皇大神宮を導いた
という話と合わなくなる恐れがありますから。
このような存在は伊勢以外の場所にあったら、きっと「名所」でしょう。
東北地方に多くあるストーンサークルは、縄文期の人々の暮らしや信仰を知る遺構として、
考古学的にも、貴重な研究対象となっています。この場所も興味深いものでしょう。
しかし、人々の目に触れず、じっと存在ているこの磐座は、逆にものすごい
メッセージを送ってくれます。
・位置について
どう見ても、自然に並んでいるものではありません。
しっかり東西を向き、その先に神聖化されていた朝熊山頂の磐座があります。
ちょうど南600mには、荒祭宮があります。
神宮社殿もそれにあわせて造成された場所にあります。
かつては、五十鈴川がすぐ脇を流れていたようです。五十鈴川上流では
このような巨岩が見られますので、重機もない時代、人が並べたものでしょうか。
ヤマト朝廷がアマテラスをこの地に祀るそのずっと前、縄文期かもしれませんが、まだ漁労、狩猟を糧に人々が暮らしていたころの自然に対する祈りがここでされていたのかもしれません。
鳥羽の海沿いにある贄遺跡は、マリーナ開発計画のために調査が進み、縄文期以前から弥生期以降の遺物が発掘されています。奈良時代にも続いていたそうです。そこには祭祀のあとが残ります。
この「内宮磐座」も信仰の対象であったのでしょう。やがて弥生文化の稲作がはじまると、ヒルメ(日のカミ)、イセの神やサルタヒコ神といった、人格化されたカミに繋がっていたのかもしれません。
朝廷が天皇による国家体制を固めるため、アマテラスを自らの祖神として位置づけ、持ち込んだのは、伊勢のこの場所が神聖な土地であるという認識が背景にあったのでしょう。当時の有力氏族の懐疑心のなかで生まれたアマテラスの神格を示すにはもってこいのロケーションではないでしょうか。
内宮を拝むとその先に荒祭宮があり、その先には、この巨大な磐座がある。その真東には
朝熊山山頂があるといった意図的な思惑があったのではと思ってしまいます。
遺構として学術的な調査をすれば、多くのことがわかるかもしれません。
それは、ずーと遠い将来にはなされるかもしれませんので、それまでは手を付けずにそっとしておくという理想的な保存状態であるとも考えられます。
PS9/2021