明治時代には、伊勢神宮が大きく変わった。
神宮と社会とのかかわりが、江戸期とは根本的にちがうものになったといえる。
7世紀、神宮が始まったころを想像していたが、その後、社会の変遷に応じて神宮はいろいろ形を変えてきた。
もともと地元地区のカミ祀り場所であった五十鈴川上流に;
庶民には関係のない天皇の祖先を祀る社として天皇はアマテラスを持ち込んだ。
伊勢地方は神宮の権力下に置かれ、奉納義務を負うが、皇室以外は参拝禁止。
持統(天皇)は、7世紀終わりの社の完成時、伊勢を訪れたが、目的は高圧的な政府機関の人事通達であった。
地方権力者の渡会氏は左遷され、朝廷貴族の中臣氏を内宮トップに任命し、政府直轄とした。
これで、伊勢は土地のカミ祀りの場所から、政府直轄の天皇の先祖を祀る機関となった。
天皇は、伊勢のそれまでの地元権力者やその祀りを抑え、アマテラスをもってきたりしたので、祟りを恐れたのだろう。それまでのカミを祀るとされる心御柱は社の真下に埋められているという。斎王を仕えさせ、天皇は明治天皇までだれも参拝していない。
明治まで・・
朝廷が衰え、天皇からの支援もなくなり、経営に窮した神宮は、御師を動員し客寄せに注力。ついでに作られた外宮ポストに左遷された渡会氏は、外宮が内宮に匹敵するという伊勢神道なるものや、倭姫にまつわる偽書をだして、内宮に対抗、外宮への参拝を増やした。
江戸時代は、天皇の影響も薄れ、庶民のガス抜きとして、遊郭も栄え、参拝が活気づく。
今と違い、参拝者は神殿まわりにも入り込み、店もその近くまで密集していたという。まさにテーマパークのありさま。町も活性化された。
特に豊受大神を祭る外宮と門前の山田の町は、内宮より活気があったという。
ところが明治になると、突然状況が変わった。
明治天皇は、東京遷都とともに、まず伊勢を参拝したのだ。もちろん鉄道もまだない。船で行った。
アマテラスが祀られて以来1000年経ち、公式に参拝した、初めての天皇だ。
日本の歴史の転機ともいえる。
民衆の神宮から、国家=天皇の祖先神を祀る神聖な神宮に。
民衆のお楽しみお伊勢参りは禁止。
天皇の祖先神を娯楽がてら参るとはとんでもない。
すぐさま、御師による集客活動は禁止された。本来、神宮は皇室のものであるから当然だ。
外宮、内宮の禰宜として長年の世襲である渡会氏、荒木田氏を解雇。
大内人の宇治土公氏は、猿田彦を神社として創建した。1300年以上前に自らの聖地を朝廷に収用されてからずっと自家で祀っていた。本来の伊勢のカミ猿田彦は、やっと中央政府から解放されたわけだ。
しかし、新たな国家宗教としての神宮のしくみができていく。
・神社の名前が変えられてしまった。
江戸時代の地図や、案内図をみると、名前が替えられたのがわかる。
江戸時代は、外宮の勢力がつよく、参拝客も多かった。
明治政府としては、天皇の祖先神 アマテラスを祀る内宮を頂点にもっていくことが最重要事項。
たとえば、
内宮、外宮の月読宮は、
内宮:月読宮、外宮:月夜見宮に変えられている。
外宮の高宮は、多賀宮に変えられている。
外宮は内宮の食事係なのに、高いという名前は恐れ多い。
高倉山の天岩戸(古墳)は、立ち入り禁止に。
・内宮は、大規模な区画整理がおこなわれ、民家が撤去されてしまった。
・御師の宿は廃業。
・いろいろな儀式が変えられた。
現在、神宮で行われている儀式も、「古式ゆかしく」というが、明治政府によって、多くのことがアレンジされた。 それは、鎖国を終え、日本国は、世界の荒波にさらされ、列強に対し非力で国家を統一強化せねば植民地化される恐れがあった。 それを、天皇を国の頂点にもっていくことで、強い日本を築くという国家の大きな方針に基づくものだったのだろう。天皇の祖先神である天照大御神はさらに絶対地位にあげられ、神社は再編成された。
心御柱前での儀式は廃止されてしまった。心御柱は、天照とは異なるものだったのだろう。
苦笑するしかないが、新嘗祭は、旧暦から新暦に替わる時に、旧暦の日を新暦の日として間違えたままになってしまった。もともと、冬至の祀りだったらしいのだが、、
じつは、神嘗祭 を伊勢神宮で行ってから、2か月後に宮中で 新嘗祭を行うということで、伊勢神宮では新嘗祭は天皇からの幣物を備えるだけで、祭典はなかったという。 ところが、明治政府は、それは「おかしい」といいだし、伊勢神宮でも新嘗祭をおこなうようになった。
国の皇国化により、政府が祝祭に関与し、1000年以上続いた祭事が変えられてしまった。
また、祈年祭 は 二月 十 七日 に 行わ れる よう になり ます。 これ は 国家神道 の もと で 全国 一律 に 開始 さ れ た もの です が、 それぞれ の 神社 の 伝統 や 事情 を 無視 し て 強制 さ れ た もの です。
岡田精司. 神社の古代史 (ちくま学芸文庫)
放火や人命に及んだ両宮の戦いも終焉を迎えた。
天皇が日本国の最高統治者となった。アマテラスは、天皇の祖先神すなわち皇祖神であるから、絶対的な高みにある。内宮はもはや庶民の参拝対象ではない、国の最重要施設となった。
外宮、豊受神は、その奉仕者で下位にあり、内宮、外宮という位置、順位付けが徹底された。
神域も整備され配置も変わった。仏教的な名前の場所は名を変えた。多くの寺が廃止され僧は辞めざるをえなかった。参拝客は激減し神宮は経済的にも苦境となった。
明治6年の神仏分離令
明治39年の神社合祀令は、徹底的な神社の再構築であった。
多くの村々の社は、合祀され消えた。日本書紀をベースにした皇統による神社の格付け、アマテラスを頂点とする序列に位置付けられた。三重県でも社の数は6500社から1/7という凄まじいやりかたであった。
結果として、アマテラスに関係しない神社は激減。神社を守るため、アマテラス系のカミを祀り、神社名まで変えて存続を図ったともいう。
伊勢住民にとっては、最大の経済危機といえる。すぐ東京の新政府に陳情がだされた。
「伊勢の町も活性化のため、施設の誘致や近代化を働きかけた」が、神宮も生き残り策を探した。
今、行われている雅楽も、古くから神宮に伝わったものではない。収入源とするため、明治以降にはじめ、昭和になってようやく神宮が自力演奏できるようになったという。以下引用。
収入源として「神楽殿での神楽の演奏」を太政官に申請した。しかし、楽器の演奏は、宮内庁の雅楽師に習わねばならないが、なかなか容易には教えてくれない。ようやく許しを得て、習いに行っても、カンタンには上達しない。神宮の専任楽師が自力で演奏したのは昭和7年。それまで60年の歳月がかかった。現在、神宮の専任楽師は32人。しかし遷宮の時の雅楽は、宮内庁雅楽部の人が来て演奏する。
だが この曲は 秘曲で、大宮司といえども聴くことはできない。そんな閉鎖的な世界の「雅楽」だが、日本の歴史の中で「雅楽」を演奏する人口は、現代が最多とのこと。
といっても、一般人が「雅楽」と思って聞いているのは海外伝承の「唐楽」と「高麗楽」で、「国振り(日本)」の「御神楽(みかぐら)」は、宮内庁の賢所(かしこどころ)以外では聴くことはできないのだそうです。
天武と同じ発想か。明治政府は政治権力の強化のため、天皇の先祖アマテラスとその権威を最大に利用。大陸からの侵略を恐れた1000年前のヤマト朝廷と同じだ。
本居宣長らが研究した日本書紀、古事記など国史を拠り所に国の存在の源をアマテラスにもっていった。
大日本帝国憲法においても天皇と神を位置づける。無論、裏で画策した人間がいるのだろう。
しかも、大日本帝国憲法は、明治22年 伊勢神宮の遷宮の年に合わせて発布された。
発布の2月11日は、神武天皇が即位された日であり、戦前は紀元節とよばれた。
1890年明治23年11月29日 大日本帝国憲法により、神社は国家から宗教として扱われないまま国家祭祀を公的に行う位置づけとされた。
すなわち、宗教ではないので、仏教やキリスト教とは異なる次元の国家機関となった。
明治中期になると、教育にも伊勢神宮を取り込み、学童の伊勢参拝を推進した。
鉄道も協力し、全国から学童が伊勢を訪れた。国家の源の神を参拝にいくという最重要行事となった。
伊勢を神都として位置づけ、再構築する。仏教寺は立ち退き、町の名前も変えられた。神宮徴古館もフランス風に建てられ、道路整備、市電も走り、国鉄以外に私鉄も2社が複線電化路線に特急を走らせた。
明治天皇は、日清、日露戦争でも平和達成を参拝祈願。昭和になるとさらに軍部が皇国史観の徹底に利用。日露戦争の戦利品のロシア軍大砲なども奉納された。
江戸時代の終わりまで、神宮に参拝することもできなかった天皇とは逆転の立場である。
倭姫宮の創建が陳情され、例をみない速さで承認、予算が付いた。
統治下に置いた台湾や朝鮮はもちろん、シンガポール、南洋諸島にまでアマテラスを祀る神社を建て、現地の人たちの参拝を強いたという。
だが、1945年の日本敗戦後 また逆転した。昭和 戦後の伊勢神宮へ・・
1945年日本敗戦、その年の暮れ、占領軍命令によってだされた神道指令で、政治と神宮が切り離された。神宮司庁は国家機関から、一般宗教団体となった。米軍は戦時中から神道を利用した政府の戦争遂行思想を警戒していたのだ。
奉納されていた大砲などの戦利品は、見つからないよう跡形もなく分解され処分された。
米軍ジープが参道を走り回ったという。
もはや、政府予算が付かなくなったのは無論、政治家が公人として神宮を参拝することは禁止された。
再び、神宮は窮地に落ちた。予定されていた遷宮もそれどころではなく延期された。
2020/1,11追記
しかし、その後、さらに逆転。また伊勢は復活していく。