安徳天皇と我が観音山 | return-of-cd125tのブログ

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 そんな話は一度も聞いたことはない。私が故郷を離れるまでの18年間、ずーっと、この山の懐に抱かれて過ごし、寝起きを共にしていた、その観音山が、安徳天皇が18歳で没した地だというのだ。

それと、この観音山を開いたのが、奈良時代の百済系渡来人である行基だというのだが、本当だろうか。安徳天皇の生存悦という俗信は各地にあり、その事実は確かめようがない。

でも、天皇にあらせられるお方を、わざわざ壇ノ浦の急流の海戦上にお連れすることなどあるのだろうか。おそらく、海中に没したのは替え玉の少年だったのではないかと思う。源氏に捉えられれば殺される運命が待っているのだから、死んだと思わせれば、それ以降の追及はないのだから、再興の機会もあるというものだ。

それはそうと、この観音山の真下あたりの中腹に、人知れず、ひっそりと建つこじんまりしたお堂がある。子供心に、その周りに放つ光は高尚なものに感じた。誰が手入れをしているのか、いつもきれいに清掃されていた。そのお堂は現在、どのような状態になっているのだろう。夕暮れの焼けた空の光がお堂を照らし、海もきらきらと輝いて、彼岸の光景とも思えた。

こんな急斜面の山では珍しく、水場がこの近くにはある。安徳天皇がここに沸く水を求め、観音山の頂上まで通っていたのかと、バカな想像をしてみたりするのだ。

この観音山に逃れた安徳天皇が18歳で若くして亡くなったという情報を知る前に、フェイスブック友達に、私は安徳天皇の生まれ変わりだと冗談めかしに言ったことがある。

私の18歳まで見上げていたあの山が、安徳の伝説のあるものだとは思いも及ばないのだが、母親から良く聞かされていたのは、母方の先祖は平家の落人だったということで、まるで脈略のないことでもない。母方の菩提寺のすぐ裏に室町時代から続く風雨にさらされ文字も消えようとする墓石もある。

母親が無くなる数年前に、なぜか京都にある安徳の母、徳子が隠棲していたという寂光院を見たいというので、雪の積もる杉林の道を連れて行ったことがる。

こんな戯言のようなことに思いを巡らせ、老いてゆく現実を紛らわせながらやがて消えてゆく身なのだ。