自由もなく常に監視のもとにさらされている、天皇と皇室 誰が好き好んで、こんなところに生まれてくる | return-of-cd125tのブログ

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 息のつまるような毎日、毎日が公務で気の休む時なんてない。なのに、同情よりも批判、バッシングと週刊誌ネタにされ、挙句の果てに、出自は朝鮮だ、田布施だとか、庶民は日頃の、うっ憤を晴らすがごとく、天皇や皇室に当たり散らす。それに対して反論などもってのほか、ただただ、打たれるに任せていなければならない、足枷さるぐつわの拷問の刑に等しい。そんな、高貴な身分になんか生まれたくもないと思うのだが、物乞いよりもましだろうと、、働けど、働けど、高い税金をふんだくられる我が身は、その自由と引き換えに、やんごとなき身分に憧れたりもする。でも、日本共産党マルクス主義者のように、その2600年続く存在を抹殺し、スターリン、レーニン、毛沢東がおこなった独裁を持ってまで、国に君臨したいという志向は私にはない。共産主義には潜在的に独裁志向がインプットされているもののようだ。おそらく、その独裁性は自国の歴史を無視した狭量で独断的な論理の上に国家を置こうとする無理から生じるものだ。実験としての共産主義は本家ソビエトで誕生し、ソビエトで消滅し、その失敗が証明された。現存する共産主義国家は独裁と粛清と貧しさに怯えている。なのに、日本共産党は、まだ、幻想のユートピアがあるかの如く、貧乏人を騙し、延命の手助けをさせている。でもまあ、古来、日本はシナで忘れられた仏教や儒教的なものを、改良して洗礼されたものに高めてきた。それで、共産主義思想は日本的なものにまで高められるなどという楽観主義はやめたほうがいい。どう考えても、無学で貧しい共産庶民が難解なマルクス主義の資本論など理解できるはずはないだろうし、理屈のためなら人殺しも辞さないという、それほど強固な理屈優先の思想が共産主義という宗教なのだ。要するに、資本家は悪で労働者は善という2元論でしかないから単純な人間は騙されるのだ。とにかくも人生の根本を物質的なもの、理念的なものに求める共産宗教は破綻するの運命にある。実際、共産党の初代党首である宮本顕次は仲間をリンチで殺したという罪で戦前、警察に逮捕されたのだが、戦後、彼の嫌うアメリカ帝国主義に救われたという恥ずかしい経緯がある。 しかし、そのような、非合法の天皇暗殺集団である共産党であるのに、よくまあ、宮本を処刑もせずに軍国日本は生かしておいたものだ。彼は、そんな、ゆるゆる戦前日本軍国主義に感謝せねばならないのだが。 なんだかんだ言ったって、貧しさが売り物の共産党ではあるが、日本の資本主義という経済大国第二位の土台があるゆえに存続可能なのだが、そんなありがたい恩恵を得ているにもかかわらず、政府を批判する。頭の悪い集団であるからして、全くその矛盾を感じないで、日本に寄生するのだ。要するに、日本国民のお情けで生きのびてきた甘ったれという事なのだ。そんなことも判らない共産党員である日教組が子供を教えているのだから、馬鹿が増殖するのは当然だ。