キリスト教の本義は汝の隣人を愛せよだが、愛せよというにもかかわらずキリスト教国間の戦争は何世紀も絶えなかったし、異教徒は殺してもいいということになっていた。一方、仏教と言えば、その教義は生きとして生きるものを無駄に殺生してはいけないというなのだが、現実に適していない教義はその発祥の地でさえ忘れ去られようとしている。続いて、仏教はシナ、朝鮮に渡ったが、日々騙しあいに明け暮れる、生存競争激しいこの地で花開くことはなく、儒教と言う国家管理をうまくできる方法を選んだ。このような民族性を持つ仏教でさえ根付かなかった国へ、日本の大東亜戦争の八紘一宇思想がシナ大陸では通用しないことは日本人はあの戦争で嫌と言うほど体現した。チベットやウィグルの一部の地域で仏教が受け入れられたのは、日本やそのような閉ざされた地域に残る古い(絶滅DNA)が辛うじて保護されてきた生存競争に弱い民族だけが共有するDNAの賜物であるだろう。しかし、このような閉ざされた地域の古いDNAを持つ我々の特徴は、お人好しだという事だ。東京裁判で大陸国家から悪者、犯罪国家と断罪されれば、ああそうかと、そのまま受け入れてしまうという大陸民族の常に生存競争にさらされている国には見られない特徴だ。仏教国チベットのお人好しDNAは武器を持たずシナに簡単に蹂躙されてしまった。 それにしても、キリスト教の教義汝の隣人を愛せと言いながら、せっせと武器作りに勤しむ白人キリストとは一体何者なのだ。葛藤もなく人生をエンジョイできるとはまったくおめでたくも憎めない人たちだ。そして彼らの科学技術は世界を席巻するようになった。どうも、この世は一足す一は二になる事ばかりにはできていないようだ。 科学的、論理的宗教なのは、どちらかといえば、目には目を歯には歯をでお馴染みの、イスラム教の方に軍配が上がりそうだ。目をやられたら相手の目だけを、同じようにやるというのだから、キリスト教徒のように目をやられても相手を殺すようなことはしてはいけないのだ。世界にイスラム教が増えてゆくのも分かるような気がする。生存競争激しい大陸民族の性質をよく理解した宗教であるのかもしれない。 しかし、やはり特筆すべきは日本神道であろう。 日本神道(日本人)は仏教は受け入れるは儒教は取り込むはキリスト教は楽しむはで、一見ゲテモノ食いのようでもあるが、それらをうまく改造利用してきた。それらの思想を無毒化し、根源宇宙の真理に迫る、日本神道をさらに深化させてきたのだ。 しかしこのような日本人特有の人生観は大陸民族に理解できる日はくるのであろうか? それは無理である。それをなぞることはことは出来ても無理である。なぜなら日本人のDNAは僅かに閉ざされてきた地域だけに残る血筋だからである。この点を熟知していなければ、DNAの差著しい大陸国家と対等に渡り合えるなど考えてしまうと彼らに呑み込まれてしまうという事だ。まずは、己を知れだ。