戦後文学のスケールの小ささ | return-of-cd125tのブログ

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文学や芸術の世界に歴史認識などは入る余地はないと思うのだが、どうもそうではないらしい。私たち団塊世代もしくは、それを過ぎた文学好きな者にとっては、日本を代表とする、大江健三郎や村上春樹が文学者の最高峰と思いがちだが果たしてそうなのか? 想像力は歴史認識を超えるとでもいうのか。もしかすると、彼らが世界的に有名でいられるのは日本というネームバリューにあやかっているだけかもしれないとさえ思ってしまう。これら二人の親共産党、親中国寄りの日ごろからの言動から見ても、かれらの文学的才能の陳腐さの一端が垣間見て取れる。日本にいる彼らの多くの読者たちのインテリジェンスをも疑ってしまう。彼らをはじめ、日本に生息する文学者といわれる人達の多くが戦後の日本を新日本として捉え、皇紀2600年続く日本から断絶し、あたかも自分たちは非日本人という視点からしか物事を捉えられなくなっているようだ。彼らのスピリットもまた敗戦自虐史観で彩られている。グローバリズムは悪いとは思わないが無国籍は駄目だ。要するに、彼らはアイデンティティを持たないのだ。それがどうしたと言われればそれまでだが、それならばどこかの国へ行ってくれ、日本国籍である必要はないだろうと言いたくなってしまう。本当の日本人文学者の登場を期待したい。