私のIQは極めて低い 小学生の時にクラスで最低であった クラスに傷害のある子が二人いたが、その二人よりもかなり低かった。音階も読めなかった。そろばんも出来なかった。文章題というのも全くできなかった。少しできたのは漢字を読めたこと。先生がおだてて褒めてくれた。とにかく人並みの知的能力が欲しくてクラスで一番頭のよい子が左利きだったので私も左手を使ってみたが全く馬鹿は克服できなかった。かといって学習意欲がなかったわけでもない。ただ負けず嫌いなところが私を支えていたように思う。私とよく似た人がいるのかと この歳になるまで探してはみたが居なかったように思う。そんな私が頭のよい人たちが行く進学校に入れたのも何かの間違いだった。負けず嫌いが災いしたのだ。つまらない三年間だった。異次元の世界だった。でも競争においては最も遠い存在と思われて安心していたのか何人か友達もいた。ように思う。悲しいが 受験勉強疲れの癒しを求めてきてくれただけなのであろう。高校以降は大阪での雑多な 惨めな経歴は特記に値しないことばかりだ。今も私がLDだと気づく人は誰もいない。でも 間もなくもお迎えの棺の到着を待つばかりの還暦を越えた傷だらけの一つのボディーに過ぎない私にはそんなことどうでもいいことだ。私と同じ日に生まれ 村の産婆を取り合ったとよく聞かされた彼は私より早く正午頃に生まれた 私が生まれたのは夕方近くであった。先に生まれた彼は生まれつき障害を持っていてほとんど言葉を発しない ただうぉーうぉと唸っていた。戸外にはほとんど出て来ずに暗い家の奥にいて姿を現すこともなかつた。そんな彼を最後に見たのが彼の母親の背に大きな体でおぶさり坂道を下って行く姿だった。脳症が悪化したのか それっきり帰って来なかった。夏の暑い日だった。私が海で泳いだ帰りの坂道での記憶だ。袖刷りあうも他生の縁であったのか分からないが彼との最後の邂逅となってしまった運命の十字路の思い出だ。 鬼怒川の洪水で被害に遭われた住民のみなさんお見舞い申し上げます ご無事をお祈りいたします