現在多摩ニュータウンが広がる一帯は多摩丘陵と呼ばれ、雑木林や農村が広がっていた。
高度経済成長に伴って段階的に開発が行われ、丘陵地帯は次第に減少していった。
ジブリアニメ『平成狸合戦ぽんぽこ』は、そうした丘陵地の開発がモチーフになっている。
そんな多摩丘陵だが、今なお部分的だが往時の面影を偲ばせる場所が残っている。
今回取り上げる
町田市小野路
がそうだ。
新宿から小田急線で急行と各駅を乗り継いで鶴川で降り、さらに神奈中バス鶴32系統多摩センター行きで15分程だ。
一帯は緑に覆われ、山に囲まれている格好だが、その窪地を南北に通っているのが鎌倉古道(現在の都道18号)で、小野神社の辺りで大山道と分岐する。
かつては街道沿いに宿場町「小野路宿」があった。
「小野神社前交差点」
南北を通る都道18号こと鎌倉街道と大山街道との分岐点だ。
ここから宿場町が街道沿いに伸びていた。
その角に「小野路宿里山交流館」という施設があるので、そこを散策のスタートとしたい。
かつては「角屋」という屋号の旅籠だった。
大山道沿いに、昭和4年築の長屋門が残る。
往時の建物として残っているのは他に手前の土蔵と味噌蔵ぐらいだ。
主屋は再現されたもので、現在は地域交流の場として使われていて、農産物の直売や休憩所としても利用可能だ。
この「角屋」を含めて宿場町には旅籠が6軒あったという。
小野路宿通り(鎌倉街道) posted by (C)佐々張ケン太
往時の宿場町の雰囲気を最も濃く残っている箇所がここだ。
かつては歩道がない狭い街道を車がひっ切りになしに飛ばしていたが、現在は改修され、水路も新たに設けられた。
街道の両側には木塀が続いているが、写真左手が「里山交流館」だ。
小野路宿(小島資料館) posted by (C)佐々張ケン太
里山交流館の向かいにある門塀が「小島家住宅」で、現在は「小島資料館」として休日のみだが公開されている。
小島家は小野路宿の名主で、20代当主小島鹿之助のときに近藤勇や土方歳三らが出稽古に訪れていたという。
新選組所縁のスポットでもある。
その近藤らが調布から通う際に通ったのが布田道で、その道中には往時から変わっていないと思しき景色が残っている。
布田道は調布の布田宿と小野路宿を結ぶ古道で、途中で周囲が竹藪に囲まれた切通しが現れる。
「関屋の切通し」と呼ばれ、名前からして関所があったという。
里山交流館から500m程と近いので、見ておきたいスポットだ。
さて、大山道に入り「里山交流館」の並びに建つ小野神社へ。
創建は天禄3年[972年]ごろと伝えられているが、祭神は廷臣で歌人でもあった小野篁、小倉百人一首では"参議篁"という名で知られ、小野小町や小野道風の祖父でもある。
7代孫の小野孝泰が武蔵国司に赴任する際、この地に小野篁を祀ったのが神社の始まりと言われる。
"小野路"の地名も小野氏の名前から来ており、赴任した国府(現在の府中市)への途中の路という意味で付けられた。
小野神社から大山街道を外れた細い道に入っていくと、奥に広大な谷戸(やと)が広がっている。
近くにある寺の名前を採って「万松寺谷戸」と呼ばれる。
谷戸は丘陵地が侵食されてできた谷状の地形で、水資源が豊富なために農業地に利用されることが多い。
地域によっては"谷津(やつ)""谷地(やち)"などと呼ばれるが、西日本では"迫(さこ)""洞(ほら)"と呼ばれている。
谷戸の手前には草木に感謝するために建てられた「草木塔」がある。
万松寺谷戸から山道を登っていく。
山道の先には、かつては小野路城が建っていた。
平安末期に桓武平時の流れを汲む豪族小山田家が築城した平山城で、戦国時代初めのころに落城し、往時を思い起こすような遺構が残っていない。
眼病を患った小野小町が目を洗ったとされる井戸(小町井戸)もあったといわれる。
山道の途中に牛舎。
東京都内で牛舎が見られるとはね。
炭焼き小屋が見えてくると、その先には......
広大な谷戸が眼前に広がっている。
先程の万松寺谷戸とはけた違いだ。
この谷戸は「奈良ばい谷戸」と呼ばれる。
やはり斜面から流れる湧き水が豊富で、そこから農地に流れている。
多摩ニュータウン造成の際、この地も開発の手が入る予定だったのが頓挫し、荒れ地になっていたのを地元有志の手によって往時の里山の姿に戻したのが今の姿だ。
既に収穫を終えたばかりの農地が森林に囲まれる形で残っている、東京都内で見られる原風景だ。
山道を抜けた先が車道で、そこから谷戸が眺望できる。
ここから左へ歩くと、町田バスセンター行きの日大三校東バス停にたどり着く。
そんな訳で、あのジブリアニメにあるような狸が出てきそうな風景が見られる小野路界隈、お勧めですよ