【東京都】"コロナ禍"のなかハンセン病療養所「多磨全生園」を歩いて考える(東村山市)202011 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
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観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

 

コロナ騒動が始まったのは今年の1月終わりごろ、2020年も暮れようとしているがコロナで始まりコロナで終わるといった1年だ。

メディアの世界でもネットの世界でも、コロナの話題がない日はなかったと云っても過言でもない。

年が明けても"コロナ禍"がそのまま引きずられる勢いで、こういう状況になったのもコロナを"恐怖の病"が如く世間に恐怖を植え付け、ミスリードしてきたメディアやネット界隈による"インフォデミック"のせいだと云っても過言ではない。

一連のコロナ騒動は決して"パンデミック"ではないのだ。

 

尤も、そんなことを当ブログで議論するのが目的ではないし、そのつもりはない。

"コロナ禍"のなかでふと連想したのは、戦前から戦後にかけて結核と共にやはり不治の病として世間に恐怖を植え付けさせてきたハンセン病である。

何れも一度罹ると二度と治ることなく、伝染すると云われ、更には皮膚組織が損傷する症状から見た目への差別や偏見を生み、長く重い歴史を生み出してきた。

コロナに感染した人たちへの差別や偏見、果ては酷い攻撃とか所々で起きているが、同じような事が戦前の日本でもあったという訳で、裏を返せば戦前戦後を通して日本人の本質が何一つ変わってないという事だが。

現在こそ結核もハンセン病も治療法が確立され、不治の病でなくなっているものの、今もって世間の目を憚って生き続けている元患者さんたちも少なくない。

 

 

 

 

そんな元ハンセン病患者さんが今も生活している場所が、今回取り上げる

「国立療養所多磨全生園」

最寄り駅は西武新宿線電車久米川駅か同池袋線電車清瀬駅で、いずれからもバスバスが出ている。

上の地図を見ると、周辺には病院や医療関係の施設が所々に見受けられる。

一帯には戦前に結核療養所(サナトリウム)が多く置かれてきた歴史があり、現在多く点在している総合病院のほとんどがその流れを汲んでいる。

 

 

 

 

多磨全生園と周辺の住宅街
多磨全生園と周辺の住宅街 posted by (C)佐々張ケン太

 

現在は住宅街の中にある多磨全生園だが、かつては武蔵野の森で一帯に雑木林が広がっていた。

結核もハンセン病も伝染性があるという事から、居住区域から隔離された僻地に療養所が置かれたことが伺える。

 

 

 

多磨全生園正門
多磨全生園正門 posted by (C)佐々張ケン太

 

起源は明治42[1909]年に開設されたハンセン病療養所「東京府立全生病院」で、昭和16[1941]年に国立に移管され現在の名称となる。

全国には同じような国立ハンセン病療養所が13カ所あり、合わせて1211名の入所者、平均寿命も85.9歳と高齢化している(2019年5月1日現在)。

件の多磨全生園には156人が現在も生活をし続けているが、遠からず療養所の入所者もいなくなるのではと思われる。

写真の正門だが、かつては職員専用だったといい、患者はそれとは別に「収容門」から入所したという。

 

 

 

国立ハンセン病資料館
国立ハンセン病資料館 posted by (C)佐々張ケン太

 

全生園の敷地内西側には国立ハンセン病資料館というのがある。

日本のハンセン病に関する歴史や施策について資料展示している。

開設が平成5[1993]年、平成13年に熊本地裁でのハンセン病国家賠償請求訴訟で国側の敗訴が決定し、当時の首相・小泉純一郎が控訴断念を発表と共に資料館の拡充を声明。

現在は開設当時よりも質量ともに展示が充実している。

ハンセン病について知るうえで、まずはそちらに立ち寄るといいだろう。

(館内の展示室では写真撮影が不可)

 

国立ハンセン病資料館の公式サイトはこちら

 

 

 

国立ハンセン病資料館
国立ハンセン病資料館 posted by (C)佐々張ケン太

 

玄関の脇に立っている「母娘遍路像」は、かつてのハンセン病患者の苦難を象徴している。

治療法も確立されていなかった時代、病にかかると療養所へ強制的に隔離されるか、救いを求めて四国に遍路廻りに出るかしかなかったという。

ハンセン病はもともと"癩(らい)病"と呼ばれ、古くは"仏罰""穢れ"として忌み嫌われた。

感染者に対する差別の歴史は、その時点で既に始まっていたといわれる。

時代と共に"家筋や血筋"による病と見做されると、患者だけでなくその数屋全体も差別対象となっていった。

"ハンセン病"という名前は、明治6[1873]年にらい菌を発見したノルウェーの医者の名前から来ている。

これによりハンセン病はらい菌による感染症だと判明するが、それに対する治療法が確立されていないままで、発見者ハンセンも感染者に対しては隔離が必要だと主張している。

これが世界的な潮流となり、日本におけるハンセン病政策にも反映される。

 

 

 

多磨全生園
多磨全生園 posted by (C)佐々張ケン太

 

明治40[1907]年に「癩予防二関スル件」が施行されると、国策として隔離政策が始まり、その一環として多磨全生園の前身「全生病院」が設立される。

多磨全生園の敷地面積は35万3585平方メートルと広大だが、かつては一度入所するとこの敷地内から出ることが一生涯許されなかった。

社会や家族から隔離され、この敷地内だけで一生涯を終えることになったのである。

患者の発見は地域住民による密告によるものも少なくなく、それを受けて地域の有力者や警察を伴って療養所への入所を勧めるのだが、実質上強制と変わりはなく、後には警察や軍の力で拘束し無理やり収容というのも行われた。

そうした隔離政策を強固に提言したのが東京市養育院の医官・光田健輔で、長年にわたり日本のハンセン病の権威として君臨する事になる。

それは同時に、戦前から戦後にかけて長く続いたハンセン病患者に対する隔離政策の歴史でもある。

「癩予防二関スル件」は昭和6[1931]年に「癩予防法」に改正されるが、それは患者の強制隔離を徹底させるものであった。

 

 

 

多磨全生園 山吹舎
多磨全生園 山吹舎 posted by (C)佐々張ケン太

 

敷地内には戦前の建造物がわずかながら残っている。

その一つが独身男子の軽症者対象の「山吹舎」で、昭和3[1928]年築。

こうした建物はみな、大工技術をもつ患者の手で造られた。

12畳半の部屋が四軒長屋状に並び、一部屋に最大8名が共同生活をしていたという。

 

 

 

多磨全生園 山吹舎
多磨全生園 山吹舎 posted by (C)佐々張ケン太

 

独身舎とは別に夫婦舎もあったように、男女の結婚は認められながらも制限があった。

当初は夫婦の同居は認められずに、夜だけ男性が相手の女性が住む宿舎へ訪れる通い婚のみだった。

後に夫婦舎ができても、12畳半の部屋に3~4組の夫婦が同居する"夫婦雑居"という形で、何れにしても当然ながら夜の生活などはプライバシーもあったものではなかった。

互いの夫婦が気を遣い、心安らぐ夫婦生活でなかったろう。

更に由々しき事には、結婚したとしても子供を持つことを許されず、断種や中絶を強制された。

日本のハンセン病政策で特に非難の対象とされたがこの断種で、当時の政策が"病気の撲滅"ではなく"患者の撲滅"に重きを置いたことを顕している。

 

 

 

多磨全生園 全生学園の跡
多磨全生園 全生学園の跡 posted by (C)佐々張ケン太

 

収容されたのは成人の患者だけでなく、児童や青年もまた対象となった。

当然ながら地域の学校で教育を受けさせることはできず、園内の「全生学園」で教育を受けていた。

戦後は教育基本法に伴い、東村山市内の小中学校の分校扱いで本校から教員が派遣されそこで教鞭をとっていたが、昭和59年に閉校する。

昭和6年落成の校舎がこの地にあったが、老朽化で解体され、碑が立っている。 

 

 

 

多磨全生園 望郷の丘
多磨全生園 望郷の丘 posted by (C)佐々張ケン太

 

近くにある小高い丘は「望郷の丘」と呼ばれる。

患者の脱走防止のために築いた掘割の残土でできており、丘の上から園外の景色を望めたという。

患者たちは丘の上から故郷に思いを馳せていたのだろう。

因みに、療養所には患者の脱走防止のための堀や土塁、生け垣などが残っているのが少なくない。

それらは患者の手による作業で行われた(というよりは行わされたと云った方がいいだろう)。

 

 

 

多磨全生園 全生者の墓
多磨全生園 全生者の墓 posted by (C)佐々張ケン太

 

療養所に収容された患者はここを出ることが許されずに一生涯を終える。

亡くなっても決して遺骸が故郷の家族に引き取られることはなかった。

死しても尚、患者は社会から隔絶と差別を受けていたのである。

 

 

 

多磨全生園 納骨堂
多磨全生園 納骨堂 posted by (C)佐々張ケン太

 

国立ハンセン病資料館のすぐ裏手にある納骨堂。

昭和10年に建立され、そこには多磨全生園開設以来、園内で亡くなった患者の遺骨が納められている。

開園以来の物故者は4千人を超える。

 

 

 

多磨全生園 納骨堂
多磨全生園 納骨堂 posted by (C)佐々張ケン太

 

納骨堂に刻まれている言葉が「俱会一処(くえいっしょ)」。

浄土真宗に登場する言葉で、要は"死しても極楽でともに逢おう"という意味が込められている。

園内でなくなっても、故郷の家族や親族など引き取り手がないまま、こうして納骨堂に眠らざるを得ない。

 

 

 

 

多磨全生園 尊厳回復の碑
多磨全生園 尊厳回復の碑 posted by (C)佐々張ケン太

 

納骨堂の脇に立っている石碑には「尊厳回復の碑」と刻まれている。

前述したが、結婚後は子種を残すことが許されず、断種や堕胎が半ば強制された。

そこで堕胎された36体の胎児が標本として長年ホルマリン漬けに保存されていたという。

こうして人としての尊厳が打ち捨てられる行為は非難の的となり、そうした嬰児たちの霊を慰めるために置かれた碑である。

 

 

 

多磨全生園 火葬場跡
多磨全生園 火葬場跡 posted by (C)佐々張ケン太

 

納骨堂に収められる遺骨だが、遺体は地域の火葬場で焼却させてもらうことができないので、各療養所の園内には必ずと言っていいほど火葬場が設置され、そこで焼かれた。

納骨堂の裏手に案内板があるが、関東大震災までこの場所に最初の火葬場が置かれ、そこで療養所で亡くなった患者の遺体が焼却されるのだ。

"煙になって初めて故郷に帰れる"とは園内でよく言われる言葉だったという。

 

 

 

多磨全生園 宗教区域
多磨全生園 宗教区域 posted by (C)佐々張ケン太

 

ハンセン病と診断されると、本人もそれまで同じ偏見を持っていたが為に受けたショックは大きかったという。

家族も"癩の血筋"として忌み嫌われるため、家や故郷を追われて療養所に入所する(或いは入所させられる)しかなかったのが戦前のハンセン病患者の置かれた立場だった。

収容されると死まで外に出ることが許されないという絶望感、そうなったときは神仏にすがる他がないという苦悩がうかがえられる。

そんな訳で、園内には仏教やキリスト教、神道といった様々な宗派の施設が集まっている。

信教の自由は園内でも保障されていた。

 

 

 

多磨全生園
多磨全生園 posted by (C)佐々張ケン太

 

広大な敷地を誇る多磨全生園、すべてを見たわけではなかったが、様々な思いを巡らせながらざっくりと回ってきた。

戦後に入り、ハンセン病の治療薬プロミンが開発され日本にも導入されると、不治の病と思われてきたハンセン病患者たちに大きな希望が生まれる。

昭和28年に「らい基本法」が制定されるが、隔離政策は撤廃された訳でなく、患者たちは人間としての尊厳回復のため、長い闘いに入らなければならなかった。

日本国憲法が制定され、人権が保障されたと云っても社会のなかではハンセン病患者は相変わらず隔離と差別の対象でしかなかったのだ。

 

 

 

多磨全生園
多磨全生園 posted by (C)佐々張ケン太

 

患者たちの願いが結実されるようになるには、らい予防法廃止の平成8[1996]年まで待たねばならず、国が政策の誤りを認めて謝罪したのはさらに5年後、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟で違憲判決が出た平成13[2001]年だった。

そして現在、令和の世になって舞い起こった例のコロナ騒動は、今も尚"コロナ禍"と呼ばれる形で収束どころか却って泥沼化している。

コロナに罹ったというだけで差別や中傷などをまき散らされるといった状況は、近年までのハンセン病患者に対するそれと同じである。

"自粛警察"やら"マスク警察"といったのも生み出されたのも合わせて、メディアによる"インフォデミック"に国や地方の為政者、そして国民が踊らされ狂乱しているさまを見ると、歴史は繰り返されているものだと痛感する。

勿論、愚の歴史の方で。

 

なお、俳優の石井正則氏が3年にわたって全国の国立ハンセン病療養所13カ所を廻った時に撮った写真が"13(サーティーン)"という写真集として発表している。

ハンセン病資料館でも12/5まで会期を延長して写真展が開催されたが、是非とも写真集を手に取ってご覧いただきたい。

 

長々と拙い文章を綴っていったが、今回の「多磨全生園」「国立ハンセン病資料館」訪問は色々考えさせられるものとなった。

資料館の見学は事前予約で可能なので、是非一度は訪問をお勧めする。

そのついでに「全生園」を廻っていただきたい(但し、コロナ禍で居住地域の立ち入り禁止は勿論、散策に制限が加わること点は留意されたい)。

 

 

 

 

[202011]