【和歌山県】湯浅
前回まで3回に分けて湯浅の遊里跡を取り上げてきたが、そもそも人口1万強という小さい街で3カ所も遊里を抱えてきたのはひとえに醤油醸造で繁栄してきたところが大きい。
湯浅新地はこちら。
コンクリ街はこちら。
久保里はこちら。
そんな醤油醸造を中心に発展した湯浅の街並みが重伝建指定されたのは平成18年、これは和歌山県で初(というよりは唯一)、醸造町としては全国初だ。
因みに醸造町の重伝建は、他に浜中町八木本宿〈佐賀県〉と喜多方〈福島県〉、合せて3カ所のみ。
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前回の深専寺から北へ向かう。
途中で古い町家を利用した「湯浅おもちゃ博物館」があり、気にもなったが今回はあえてスルーした。
いつの間にか重伝建地区に入っていた。
今歩いている通りが「鍛冶町」、文字通り鍛冶屋が並んでいた通りだったのだろう。
湯浅の街並みはメインの「通り」とその間の細い路地で成り立っていて、地元では「小路小路(しょうじこうじ)」と呼ばれている。
遊里跡でもそうだったが、重伝建地区も細い通りは見ごたえがある。
かの文人もこの湯浅を気に入っていたようだ。
突き当りの「北町」通りが見える辺り、右手には醤油と漁網を商っていた「竹林家住宅」が見える。
長大な間口に虫籠窓が6つ並ぶのが圧巻。
手前の「岡正」は幕末から酒屋として使われていたが、現在は休憩所として使われている。
その向こうに見えるのが「津浦家住宅」、明治11年築だ。
両側に古い街並みが並ぶ「北町」通り、重伝建地区のメインともいえる通りだ。
醤油や味噌の醸造に不可欠な麹を製造販売していた「津浦家住宅」。
醸造蔵がズラリと並ぶ「北町」通り。
手前の看板が掛かっているのが「戸津井醤油醸造場」だ。
黒漆喰仕上げの2階に四角と木瓜(もっこう)型の虫籠窓が並ぶ「加納家住宅」。
大正10年築、今でも大事に住居として使われている。
赤い丸ポストから「北町」通りを臨む。
丸ポストの背後の店は琺瑯看板の宝庫になっている。
これってガチで残っているものなのか、敢えてレトロ演出しているものか、悩ましい。
北町通りの裏手へ出る。
醸造蔵の背後に延びる石積みの堀が「大仙堀」。
もっともフォトジェニックでインスタ映えするスポット......の筈なんだが、水が枯れていてちょっと残念w
湯浅港から山田川を経て、この大仙堀へ船が出入りし、醤油の原材料や製品を積み下ろししていたという。
大仙堀の水があんな感じなので、背後の山田川をば。
湯浅漁港には漁船がズラリと繋留している。
湯浅は漁業も盛んで、優れた操船技術を持った漁民が遠く九州や関東、更には北海道まで漁場を広げていった。
その過程で、房総半島に醸造技術を広めたのは何を隠そう湯浅の漁民で、醤油といえば千葉県というイメージが強いのはそのためなのだ。
これに限らず、和歌山県と千葉県は共通の地名が多いほどに結構結びつき強いんだけどね。
再び「北町」通りへ。
現在、湯浅では唯一といっていい現役の醤油醸造蔵「角長」。
天保12年創業で、現存の建物は慶応2年築。
「浜町」通りから「角長」を臨む。
「角長」は醤油資料館も併設していて、実際に醸造で使われた道具などが展示されているそうだ。
今思えば見ておけばよかったかな。
「角長」の並びには幕末期築の「太田久助吟製」がある。
かつては醤油も醸造していたが、現在は金山寺味噌の醸造元である。
鎌倉時代に伝来したこの金山寺味噌の醸造の過程で生まれたのが醤油だったといわれていて、つまり醤油の生みの親だったわけだ。
実は湯浅に来てもっとも見たかったのがここ。
個性的な塀の建物は嘉永年間、つまり幕末から続いてきた銭湯で、昭和60年まで現役だったという。
「浜町」通りから細い小路に入ったところにあるこの銭湯、主の名前から取って「甚風呂」と呼び親しまれていた。
それにしても国旗がしっくりとくるが、たまたま訪れたのが祝日だったのよね。
正式には「戎湯」という名前の銭湯だが、創業したのが須井甚蔵という人で、人々からはその名前から取って「甚風呂」と呼び、今でもその名で知られている。
廃業後、建物が町の手にわたり、現在は資料館として無料に公開している。
現在、湯浅で営業中の銭湯は一軒もない。
流石に各戸に内湯が普及してしまい、銭湯に行く人も少なくなったからなのだろう。
しかし、最盛期には15軒もの銭湯が営業していたというから驚きだ。
人口1万強という決して大きくない町に15軒は多い。
かつて、醤油蔵で働く人、港で働く人が仕事を終えて疲れを癒す場が銭湯だったのだ。
更に言うと、湯浅には花街が3カ所あった。
芸妓さんも仕事の後(あるいは前)に身をきれいにするために銭湯に通うのは普通だったわけだ。
居住箇所は資料館となっており、往時の生活用品などを展示している。
町民の暮らしぶりを知ることができるわけだ。
今でこそ醤油といえば千葉県というイメージだが、湯浅の醤油は藩の保護を受け、最盛期の文化年間で92軒もの醤油屋が営まれてきた。
明治に入り藩の保護がなくなると醤油醸造家は一気に減少してしまうが、一方でこの湯浅が紀中の行政や経済の中心として繁栄していった。
その繁栄ぶりを表す形で、近世~近代の街並みを往時のままに残しているのが湯浅の重伝建地区だ。
決して大きくない町ながら、その中身は極めて濃ゆい。
1日がかりで回ると一層いいかもしれない。
(訪問 2019年7月)