アメリカの元FOXニュースの看板司会者であるタッカー・カールソンが、プーチンにインタビューしたと、2月7日にロシア大統領府が発表した。ロシアがウクライナに軍事侵攻(ロシアの呼称は軍事作戦)を開始してから、西側のジャーナリストがプーチンにインタビューしたのはこれが初めてである。

その映像は、カーソルンのサイトで2月9日に公開されている。

The Vladimir Putin Interview (tuckercarlson.com)

 

動画の下にインタビューのテーマ(導入を除くと11個)とタイムスタンプが付いている。

最初のテーマはロシアとウクライナの歴史。

インタビュー全体の長さは大体2時間で、テーマ「歴史」は約23分。

 

SPUTNIK International にはインタビューの全テキストが公開されている。

Putin's Interview to Tucker Carlson: Full Video and Text (sputnikglobe.com)

 

下記は、SPUTNIKに掲載された英文から、歴史のところを私が和訳したもの。

訳文中に括弧書きで 注 が入っているが、これのほとんどは、文庫本「物語 ウクライナの歴史」を参考にしたが、それ以外のものは文末に明示した。

 

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プーチン : ロシアとウクライナとの関係はどこから始まったのかを見てみましょう。

ウクライナはどこから来たのでしょうか?

ロシアは862年に中央国家として存在し始めました。

この年にノヴゴロド(ロシアの北西部にある都市)の人々は、治めてもらうためにリューリク ― スカンジナビアから来たヴァリャーグ人(注1)の公  ― を招いた(注2)ことから、これはロシア国家創設の年として考えられています。

 

ノヴゴロドの位置 (「物語 ウクライナの歴史」より)

 

注1: ノヴゴロドに来たヴァリャーグ人は「ルーシ」と自称した。

注2: ノヴゴロドの人々は、ヴァリャーグ人に貢いで都市を治めてもらっていた。いったん、ヴァリャーグ人に帰ってもらい自治を始めたが、内紛が起こり納まりがつかなかった。

 

1862年にロシアは国家一千周年を祝いました。ノヴゴロドに一千周年に奉げられた記念碑があります。

ロシア建国一千周年記念碑 (ウィキペディアより)

 

882年にリューリクの後継者オレフがキエフにやって来ました。オレフは、リューリクが亡くなり彼の子供が年少だったので、実際に摂政を行いました。

オレフは二人の兄弟(注3)を追放しました。この二人はかつて、見かけ上はリューリクの小隊の一員でした。

だから、ロシアは二つの中央、キエフとノヴゴロドの開発を始めました。

 

注3: この兄弟の名前はアスコルドとディルといい、リューリクの家臣で貴族である。この兄弟はコンスタンティノープルへ向かう途中で、キー三兄弟がつくった町(6世紀後半と推定される)を乗っ取っとり、自分たちでキエフの町とポリャーネ氏族の国を治め始めた。

キー三兄弟の名前は、キー、シチェク、ホリフで、長男の名前にちなんで町の名がキエフとなった。キエフ周辺に住んでいたのはポリャーネ氏族で、キーはポリャーネ氏族の長であった。

キエフ市のドニエプル川沿いの公園には、三兄弟と妹の像が立てられている。

 

 

ロシアの歴史で次に重要な日付は988年です。この年にロシアのキリスト教化がありました。リューリクのひ孫、ヴォロディミール大公が洗礼を受け、正教(東方キリスト教)を国教に採用しました。

この時から、中央化したロシア国家は強くなりました。

何故でしょうか。

一つの領域、統合化した経済的絆、全く同一の言語、キリスト教という同じ宗教の信仰、そして大公の治世、これらが理由です。

中央化したロシア国家の形成が始まりました。

中世に戻りますが、ヤスロラフ賢公は王座の継承順序を導入しました。しかし、彼が亡くなった後、それは、様々な理由から複雑になりました。王座は、父から長男へ直接には渡されず、亡くなった公から兄弟へと渡され、その後、様々な線で公の子供へと渡されました。これが完全に、一つの国家としてのルーシーを、断片化と終焉へ導いたのです。

それについて何も特別なことはありません。同じ事が当時、ヨーロッパでも起きました。

しかし、断片化したロシアは、ジンギス・カンが以前につくった帝国の簡単な食いものなりました。ジンギスカンの後継者すなわちバトゥ・カンは、ルーシーにやって来てほとんど全ての都市を略奪し破壊しました。

 

ところで、キエフを含む南部の都市は、簡単に独立性を失いましたが、北部の都市は一部の主権を守りました。

北部の人々は遊牧民集団に敬意を払う必要はありましたが、何とか一部の主権を守りました。

それから、統一ロシア国家の形成がモスクワを中央として始まりました。

 

キエフを含むロシアの土地の南部は、もう一つの「磁石」 ― ヨーロッパに現れた中央 ― に向かって次第に引き寄せられました。

これがリトアニア大公国です。ロシア人が人口のかなりの部分を占めていたことから、リトアニア・ルーシー公国とさえ呼ばれました。彼らは、古いロシア語を喋り正教信者でした。

 

しかしその後、ある統一、リトアニア大公国とポーランド王国の合同がありました。

 

2,3年後に、別の合同が署名されました。しかし、今回は宗教分野で既に済んだものでした。

正教の司祭の一部はローマ法王に服従するようになりました。だから、これらの土地はポーランド人・リトアニア人の国の一部になりました。

 

数十年間、ポーランド人はこの地域の人々のポーランド化に取り組みました。ポーランド人は、そこに自分たちの言語を導入しました。ここの人々はロシア人ではないという考えを固定化しようと試みました。彼らは辺境に住んでいるから「ウクライナ人」である。元々、ウクライナという単語は国の辺境に住んでいる人、もしくは国境守備に就く人を意味しました。何か特定の民族集団を意味するわけではありません。だから、ポーランド人は、ロシアの土地であるこの地域をポーランド化するために、あらゆる方法を試みていました。そして、その地域を実際に野蛮とまでは言わないが厳しく扱いました。全くこれが、ロシアの権利を求める奮闘する事実に繋がりました。彼らはワルシャワへ、権利が認められる、ここで権限が与えられることを要求する手紙を書きました。キエフへも含みますが …

 

 

カールソン: お許しいただきたいのですが、どの時期にいるのか教えてもらえますか。… 歴史のどの時期にいるのか迷子になっています。

 

プーチン: それは13世紀のことでした。

さて、その後に何が起きたかを話しましょう。混乱しないように年と共に。

そして、1654年、それよりちょっと前でさえも、ロシアの土地のあの地域に対する権威の支配下に置かれた人々は、繰り返しになりますが、権利が認められることを要求して、ワルシャワがロシア起源で正教信仰の支配者を派遣するようにと、申し入れをしました。ワルシャワは彼らに答えませんでした。事実上、彼らの要求を拒絶したので、ワルシャワを取り除いてもらおうとうモスクワを頼りました。

 

私が作り話をしていると思わないように、…

これらの文書を差し上げましょう。…

 

 

カールソン: 作り話をしているようには聞こえません。

しかし、何故それが2年前に起こったことに関係するのかについて確信が持てません。

 

 

プーチン: そうですか、でも。

これらは書庫から出した文書です。コピーですが。ここにボフダン・フメルニツキーからの手紙があります。当時、今はウクライナと呼ばれているロシアの土地で権力を制御した人です。

彼は権利が支持されることを要求する手紙をワルシャワに送りました。

そして拒絶された後、モスクワのツァーリの強力な手に支配下に置かれることを求める手紙を書き始めました。

こうしたことの文書のコピーがあります。良く思い出せるようにコピーを渡しておきます。ロシア語に翻訳されたものです。後で英語に翻訳することができます。

 

ロシアは、ポーランドと戦争になるから、これを直ぐに認めることに同意しませんでした。

それにもかかわらず、1654年に、ツァーリ(ゼムスキー・ソボル)に率いられた高位聖職者と土地所有者からなる 全ロシア会議( 古ロシア国家の権力を代表する組織体)は古ロシアの土地をモスクワ公国に組み入れることを決断しました。

予想された通り、ポーランドとの戦争が始まりました。数年続きました。当時、1654年に一つの停戦が決定されました。

そして32年後だと思いますが、ポーランドとの間で「永遠の平和」と呼ばれる平和条約が署名されました。

キエフとドニエプル川の左岸全体がロシアに行くことになり、右岸全体がポーランドに残りました。

 

カテリーナ治世下に大ロシアは、南部と西部に含まれている歴史的な土地の全てを、再び要求しました。

これは革命までの間、続きました。

 

ちょうど第1次世界大戦を前にして、オーストリア参謀はウクライナ化の考えに頼り、そして辺境とウクライナ化の考えを積極的に推進し始めました。彼らの動機は明らかでした。ちょうど第1次世界大戦前に、彼らは、潜在的な敵を弱め好ましい状態を国境地域に確保したかったのです。だから、ポーランドに現れていた考え、その地域に居住している人々は伝聞によればロシア人ではなくむしろ特別な民族集団であるウクライナ人に属していたという考えは、オーストリア参謀によって煽動され始めました。

 

19世紀に遡り、ウクライナの独立を要求する理論家が現れました。

しかしながら、こうした理論家は皆んな、ウクライナはロシアと良好な関係を持つべきと断言しました。

彼らはそれを主張しました。

 

1917革命の後、ボルシェビキは国家を回復しようと探り、そして、ポーランドに対する敵意を含みながら、内戦が始まりました。

 

1921年にポーランドとの間で和平が宣言され、その条約のもと、再びドニエプル川右岸は再びポーランドに返されました。

 

1939年にポーランドがヒトラーに協力した後、 ― いいですか、ヒトラーと協力したんですよ ― ヒトラーは、ポーランドに和平と友好条約、そして同盟を申し出ました (書庫に関連した文書の全てあります)。見返りにポーランドはドイツに、ドイツ本土から東プロシア及びケーニヒスベルクへ繋がる、いわゆるダンツィヒ回廊を返すことを要求しながらです。

 

第1次世界大戦が終了して、この領域はポーランドに移転されました。そして、ダンツィヒの代わりにグダニスクという都市が現れました。ヒトラーはポーランドに対して、平和的に回廊を与えるよう穏やかに頼みましたが、ポーランドは拒みました。それでも、ポーランドはヒトラーと協力し、チェコスロヴァキア分割に一緒に取り組みました。

 

 

カールソン: 聞いてよいでしょうか … ウクライナ、つまりウクライナのある地域の東ウクライナは、実際には何百年の間、ロシアであったことを例にあげています。24年前に大統領になった時に、なぜその地域を取らなかったのですか? 

ロシアは核兵器を持っていますが、ウクライナは持っていません、

その地域は実際にロシアの土地ですよ。何故、そんなに長く待ったのでしょうか?

 

 

プーチン: 言いましょう。私の話はその点に来ています。この要約説明は終わりに来ています。説明は退屈かもしれませんが、多くのことを説明しています。

 

 

カールソン: 退屈じゃないです。

 

 

プーチン: それはとても良かった。あなたが私の説明に価値を認めてくれたことに対してとても喜びを感じます。ありがとう。

ええーと、第2次世界大戦前にポーランドはヒトラーに協力しました。そして、ポーランドは、ヒトラーの要求に応じませんでしたが、ヒトラーと一緒にチェコスロヴァキア分割に参加しました。

 

ポーランドは、ヒトラーにダンツィヒ回廊を与えていなかった様に、ヒトラーがポーランドを攻撃することによって第2次世界大戦前を開始させるという、常識のレベルを越したことをやりました。

 

1939年9月1日に戦争を開始した人に反したのがポーランドである理由は何でしょうか?

 

ポーランドは妥協できない(注4)ことが判明しました。

ヒトラーはポーランドに関して自分の計画の実行を開始するしかなかったのです。

 

注4: ルーズベルトの側近のユダヤ人たちはヒトラーを追い詰めてポーランドに侵攻させ、ポーランドの独立支援を口実に戦争するつもりだった。(P131, 「2021年世界の真実」, 馬渕睦夫)

 

ところで、ソ連はとても正直に行動 ― 私は、書庫文書の一部を読んだのですが ― しました。

ソ連はポーランドに対して、チェコスロヴァキアを支援するために部隊をポーランド領を通って移送する許可を求めました。

しかし、当時のポーランド外相は、もしソヴィエトの飛行機がポーランドの上空を飛べば、ポーランド領上で撃墜されますよと述べました。しかし、それは問題ではありません。

 

問題なのは、戦争が始まったことです。そして、ポーランドがチェコスロヴァキアに反した追求した政策の犠牲になったことです。有名なモロトフ・リッベントロップ協定(注4)の下、ウクライナ西部を含むあの領域の一部がロシアに与えられることになっていたからです。このようにして、ロシアは、当時はソ連でしたが、歴史的な土地を再び得たのです。

 

注4: 1939年8月23日に、ドイツとソ連はポーランドを解体して折半することを決めた秘密協定。独ソ不可侵条約とも呼ばれているいる。

 

大祖国戦争、第2次世界大戦と呼びますが、の勝利の後、これら全ての領域は最終的にロシア、ソ連に帰属することになりました。

 

ポーランドに関しては、見かけ上は代償として、元々はドイツのものだった土地、ドイツの東部 (ここは今はポーランドの西部である)を受け取りました。

勿論、ポーランドはバルト海とダンツィヒ(もう一時ポーランド語の名前が与えられました)へのアクセスを再び得ました。

 

まあ、以上が事態がどのように進展したきたかです。1922年に、ソ連が確立した年ですが、ボルシェビキは、ソ連をつくり始め、ソビエト・ウクライナを確立しましたが、それは、かつては決して存在していなかったものです。

 

 

カールソン: そうですね。 

 

プーチン: スターリンは、これらの共和国が自治区としてソ連に含まれることを主張しました。レーニンは、ソ連の創設者ですが、ある理解し難い理由から、共和国はソ連から出る資格があると主張しました。 彼は、再び理解し難い理由から、そこに住んでいる人々と一緒に一部の土地を、これらの土地は決してウクライナと呼ばれることはなかったにもかかわらず、新設されたソヴィエト・ウクライナ共和国に移転しました。なおかつ、それらの土地はエカテリーナ大帝の下、ソビエト・ウクライナ共和国の一部とされました。これらの土地には、エカテリーナ大帝が受け取ったもので、ウクライナとの歴史的なつながりは全くなかった黒海沿岸地域も含まれています。たとえ1654年、これらの土地がロシア帝国に返還された時ですが、に戻ったとしても、その領域は黒海沿岸地域を除く現代ウクライナの3から4つの地域の大きさでした。それは完全に問題外でした。 

 

 

カールソン: 1654年にですか? 

 

 

プーチン: まさしく。 

 

 

カールソン: 私が思うに、あなたはこの地域について百科事典のような知識をお持ちですね。しかし、何故、大統領としての22年間、ウクライナは本当の国ではなかったこと主張しなかったのですか? 

 

 

プーチン: ソヴィエト・ウクライナには、決して帰属していなかった大きな領域が、黒海沿岸地域を含めて、与えられました。ある時、露土戦争の結果としてその地域帯を受け取った時ですが(注5)、そこは「新ロシア」もしくはノヴォロシアと呼ばれました。しかし、これは問題ではありません。問題なのはあのレーニンで、彼はソビィエト国家の創設者ですが、そのようなやり方でウクライナを確立した人です。数十年間、ウクライナのソビィエト共和国はソ連の一部として発展してきました。再び分からない理由により、ボルシェビキ(注6)はウクライナ化に取り組まされました。 

 

注5: 1774年、ロシアとトルコはクルチュク・カイナルジ条約を結び、ロシアはドニエプル川とブーフ川にまたがるトルコ領の黒海沿岸地帯を獲得した。 

 

注6: レーニンが率いた左派。またの名は共産党。 

 

それは、単に、ソビィエトの指導者がウクライナを起源とする広範囲の人々から構成されたからではありません。むしろ、ソヴィエト連合によって追求された、土着化という一般的政策によって説明されます。 

同じことが他のソヴィエト共和国で行われました。これは民族の言語や文化の促進に関係しましたが、それは原理的には悪いことではありません。 

これがソヴィエト・ウクライナがどのようにして創造されたかです。第2次世界大戦後、大戦前にポーランドに帰属していた土地に加えて、ハンガリーとルーマニアに帰属していた土地の一部(今日、ウクライナ西部として知られている)を受けいれました。それで、ハンガリーとルーマニアは土地の一部を取り去ってウクライナに与えました。その土地は依然としてウクライナの一部のままです。だからこの意味において、ロシアが、ウクライナはスターリンの意志で形成された人工国家であると、認めることに正当な理由があります。 

 

 

カールソン: あなたは、ハンガリーはウクライナからその土地を取り戻す権利がある、と信じていますか? そして、他の国は1654年の国境に戻る権利がありますか? 

 

 

プーチン: 1654年の国境に戻る権利があるかどうかは確信が持てません。 しかし、スターリン時代、いわゆるスターリン体制 ― 多くの人が主張するように、多くの人権に対する侵害と他国の権利に対する侵害が見られました。 ― を考えると、過去にさかのぼって土地を主張することは可能ではあるものの、そうする権利はありません。それは少なくとも理解できます。… 

 

カールソン: ヴィクトル・オルバンにウクライナの一部を持つことができると言ったことがありますか?  

 

プーチン: 決して言ったことがありません。一度も。それについて会話さえもしたことがありません。しかし、そこに住んでいるハンガリー人は歴史的な土地を取返したがっていることを、実際、確かに知っています。 さらに、あなたと共有したい興味深い話しがあります。脱線しますが、個人的な話しです。1980年代の前半、当時のレニングラート(今はサンクトペテルブルク) を出てからキエフを通過し、ソビィエト連邦を車で横断する旅に出かけました。それから、キエフで止まった後にウクライナ西部に行きました。Beregovoyeの町へ行くと、そこは町と村の名前の全てが、ロシア語と私の知らない言語 ― ハンガリー語 ― でした。ロシア語とハンガリー語ですよ。ウクライナ語ではなく、ロシア語とハンガリー語。私はいくつかの村を運転して通りました。家々の隣に座っている男たちがいました。彼らは黒のスリーピース・スーツを着て黒のシリンダーハットをかぶっていました。私は「芸人か何かですか?」と尋ねました。「いいえ」と言われました。彼らはエンターテイナーではありません、ハンガリー人です。私は「ここで何をしているんですか?」と言いました。― 「何を言っているの?」 ここは彼らの土地、彼らはここに住んでいるのです。これはソヴィエト時代、1980年代のことでした。彼らは、ハンガリー語、ハンガリー語の名前、そして完全な民族の装いを守ります。彼らはハンガリー人で、自分たちはハンガリー人として存在している感じています。そして勿論、今、侵害がある時に… 

 

 

カーソルン: そのようなことがたくさんあると思います。多くの国は気分を悪くしています。 ― トランシルヴァニア(注7)の人がいます。あなたや他の人たちは良くご存知のとおりです ― しかし、多くの国は、20世紀の戦争と1000年前にさかのぼる戦争、あなたが話しに出した戦争、の後に起った国境の引き直しに不満を感じています。しかし、事実はあなたが2年前の2月までの間この議論を公にしなかったこと、及び、あなたの議論の中で、私が今日理解したことですが、あなたが考える西側やNATOからの物理的な脅威、例えば潜在的な核の脅威を長々と説明しているということです。それこそがあなを行動させたものです。これは、あなたが話されたことの公平な捉え方でしょうか? 

 

注7: ルーマニア中部・北西部の地名。英語はTransylvania。中世ラテン語の表記は ”terra ultra silvam”で意味は「森の向こうの土地」。ハンガリー大平原から見るとアプセニ山脈の向こう側にある土地のことだと考えられている。(参考 ウィキペデイア考)