元日はお雑煮を食べた後、自宅から6分ぐらいにところにある稲荷神社に初詣に行った。

毎年思うことだが、多くの人がお正月に初詣出に来て感謝の念を神様に伝え、日本人って信仰心があるんだなあと感心する。
空が青くきれいで、今年の一年はいいことがたくさん来そうだなぁと感じていたのだが、その日の夕方に家で炬燵に入りくつろいでてる時に石川県能登半島で震度7の地発生というニュースを聞いた。

今の時点で明らかになっている死者数は77人だ。さらに悪いことに、2日には羽田空港の滑走路上で海上保安庁航空機とJAL航空機との衝突事故が発生というニュースを聞いた。保安庁航空機の方は5名が亡くなってしまった。JAL航空機の方は、パイロットや客室乗務員の誘導で犠牲者は一人として出なかった。これは幸いである。

私はこれまで60数年間生きてきたが、元旦に大規模な自然災害が起こり、その翌日に支援物資を運ぶ航空機が事故に遭ったというニュースを聞くのは初めてである。何か、不吉な一年になってしまわないか心配である。

お亡くなりになった方々のご冥福と、ご遺族にお悔やみを申し上げたい。

 

 

今年、最初に書くブログなので、希望が持てるというか日本人のなかには凄い人がいるということを書いてみようと思う。

源義経のことで、彼は自害したのではなく実は大陸に逃れてテムジンと名乗り、モンゴルに帝国を建国してからはジンギスハンと名乗ったのではないかという説がある。

この説を知ったのは田中英道先生の動画(令和4年8月6日 日本経済大学)から。

 

1206年に建国されたモンゴル帝国は、最盛期には東ヨーロッパにまで及んでいる。

この帝国の統治は支配した地域からの慣習、文化、宗教を尊重したといわれているから、日本らしい統治だなあと感じる。

 

 



田中先生は源義経=ジンギスハンの状況証拠をたくさ話されているが、なかでも決定的なのは二人の似絵である。

・源義経 (30歳) … 平泉へ逃げて行った時の顔。
・ジンギスハン(60歳頃) … 1206年以降の顔。君主としての地位を得る、あるいは才能を活かすととこれだけ鋭い目になる。ところが良く見ると同じ目つきである(田中英道)。

田中先生は似絵以外にも状況証拠はいくらでもあると。


・シーボルトが満州まで調査に行って義経がモンゴルへ行ったということを示す石碑を発見した。
 

・ジンギスハンの前の名前はテムジンである。歴史的書物(『元朝秘史』『集史』)の記述に、テムジンにはわりあい日本人的なところが見られる。
 

・テムジンという名前は天神からきている。天神は 菅原道真(すがわらのみちざね)のこと。義経は天神様を知っているはず。道真は大宰府に流されそこで死んでいく。義経も追放されている、二人の運命は重なる。義経は同じ心境の天神様にすがろうじゃないかと思ったと考えられる。

・ジンギスハンは「千戸制」という強力な軍事・行政組織を作り上げ「ヤサ」といわれる法令を制定して広大な国土を支配した。このようなことは、この時代に文字がなかったモンゴルの人たちには絶対にできない。「ヤサ」は日本の律令制からもってきたと考えられる。

・ジンギスハンの紋章と源氏の紋章には笹竜胆(りんどう)が使われている。

・田中先生は、作家の仁科東子(仁科美紀)さんの考察を紹介していた。

 

 

49:40 より

 

静御前が詠んだ和歌の一節

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しづやしづ しずのおだまき
くりかえし
昔を今に なすよしもがな
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最後の「なすよしもがな」を漢詩にすると成吉思汗で、現代語に訳すと

 

「吉野になりて 水干(白拍子 しらびょうし)を思う」
 

(仁科さんは、ジンギスハンのハンを漢字では汗と書き、そしてそれは水干と呼ばれる舞いを意味していると考察している

?)

 

この和歌から、義経は静御前をものすごく愛していたことがうかがえる。

「女性の歌を自分の名前にして、大陸で暴れるという、これもまたね、なんか、非常に日本人らしいといか、おつ なことが言えるわけです。こういうのを見ると、義経は如何に教養のある人だと分かるわけです。」(田中英道)