エラム人とは、紀元前3200年頃から紀元前6世紀頃にかけて、現在のイラン高原南西部(主にフゼスタン地方など)で独自の超古代文明を築き上げた民族である。
古代オリエント史において「メソポタミアの永遠のライバル」として君臨し続けた、タフでミステリアスな連中だ!
【概要】
エラム人が住んでいたのは、イラン高原の南西部。 「イランってことはペルシア人?」と思うかもしれないが、それは大きな勘違いである。後からやってきたインド・ヨーロッパ語族のペルシア人とは全くの別物であり、彼らよりはるか昔からこの地に定住していた先住民族なのだ。
ティグリス川・ユーフラテス川流域の「メソポタミア文明」のすぐお隣に位置していたため、影響を受けつつも独自の文化を発展させた。
【エラムのここがヤバい(特徴)】
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ぼっ…「孤立した言語」エラム語 彼らが使っていた「エラム語」は、周囲の言語(セム語族やインド・ヨーロッパ語族)と全く親戚関係にない「孤立した言語」である。 →周囲と全く違う独自の言葉を喋っているという、ミステリアス極まりない設定。現代の言語学者たちも「どこから来た言葉なんだ…」と頭を抱えているとかいないとか。
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超歴史的メガロポリス「スーサ」 エラムの主要都市(後に首都)といえばスーサである。 紀元前4000年以上前から人が住み始め、エラム王国、ペルシア帝国、さらにはイスラム時代に至るまで、何千年にもわたって繁栄し続けた「超・長寿都市」だ。古代史のシムシティなら間違いなくチート級の立地である。
【メソポタミアとの愛と殺意の歴史】
お隣に超有名な「メソポタミア文明(シュメール、アッカド、バビロニア、アッシリアなど)」があったため、エラムの歴史は「メソポタミアとの交流と殴り合い」で構成されている。
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基本はバチバチの対立 平野部のメソポタミアと、高原・山岳部をバックにしたエラムは、資源や領土を巡って常に争っていた。アッカド帝国に征服されて属国にされたかと思えば、逆にウル第3王朝(メソポタミアの王朝)を滅亡に追い込んだりしている。やられたらやり返す、倍返しだ!
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最大のハイライト「ハンムラビ法典ぶんどり事件」 紀元前12世紀頃、エラムは絶頂期を迎える。時の王様はバビロニアに攻め込み、なんとあの「目には目を、歯には歯を」で有名な『ハンムラビ法典』の石碑を戦利品として首都スーサに持ち帰ってしまった! (※現在ルーヴル美術館に展示されているハンムラビ法典の石碑は、バビロンではなく、この時エラム人が持ち帰ったスーサの遺跡から発掘されたものである。マジかよ)
【衰退……そして「有能な官僚」へ】
長きにわたりメソポタミアと張り合ってきたエラムだったが、紀元前7世紀、戦闘民族アッシリア(アッシュールバニパル王)の猛攻を受け、首都スーサを徹底的に破壊されてしまう。これによりエラムの国力は致命的なダメージを受けた。
その後、イラン高原に新星「アケメネス朝ペルシア」が台頭してくると、エラムはその支配下に吸収されていく。ついに滅亡か……と思いきや、エラム人はしぶとかった。
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帝国の中心として復活! アケメネス朝は、破壊されたスーサを再建し、なんと帝国の「行政の首都」にしてしまったのである。
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エラム語も公用語に! さらに、長年複雑な国家運営を行ってきたエラム人たちの行政手腕は高く評価され、「エラム語」がアケメネス朝の公式な行政言語の一つとして採用されたのだ。 →国としての「エラム」は消滅したが、彼らは大帝国の優秀な官僚・システムとしてちゃっかり生き残り、ペルシア帝国の繁栄を裏から支え続けたのである。かっこいい。
【まとめ(総評)】
エラム人とは、「メソポタミアの隣で独自のミステリアスな文化を保ち、幾度もの殴り合いを経て、最終的にはペルシア帝国の中枢として生き残ったタフな民族」である。
「世界史の授業で名前は聞いたことあるけど、よくわからない」という扱いを受けがちだが、彼らがいなければ古代オリエントの歴史、そしてあのアケメネス朝ペルシアの大帝国も違った形になっていたかもしれない。 単なる「メソポタミアの脇役」ではなく、確固たる存在感を放ち続けた古代の独立独歩勢力。それがエラム人なのだ!