石田光規は、「人それぞれ」という言葉には、個々人の違いを尊重しようという建前の裏に、考え方の異なる者同士が互いに本音で語り合わず、内面に深く踏みこむのを避けようとする側面があるという。

 

「人それぞれ」が成立するには、①多様な選択肢に加え、②多様な選択を認める社会の受け皿の2つが必要である。

 統計調査によれば、結婚しなくても良いと言う人が増えた一方で、結婚願望は依然として高い。

 進学、進路についても、本人の自由というのは、自分に利害関係の無い人に対しては明確に言える(結果は自己責任と突き放せる)が、自分の子に対して望むことは必ずしも一致しない。

 

 一見、寛容な「人それぞれの社会」は、結果としての不平等を見過ごす冷たい社会でもある。

 

「地球環境にやさしく」、「多様性の尊重」・・・

 鷲田清一はこうしたフレーズを「柔らかなスローガン」と呼び、

 だれも正面切って反対できない思想ゆえに、ひとびとの思考を眠らせるイデオロギーとして機能し、本来の意味とは逆に、かえって分断を深めている側面がある、と指摘する。

 

 たとえば「性の多様性」など、自分と異なる領域に居る人に対しては、互いに干渉を拒絶することが、傷つけ合わない「共存」と言い換えられる。本質は共存ではなくて、同質者だけが小さくまとまる、「分断」に他ならない。

 

 この問題に対する画一的模範的な回答は、今のところ見当たらない。

 

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 最近、ニューロダイバーシティということばをたまに目にする。たいていは、きれいごとの皮を被った、人間の欲望の姿である。

 

 このことばは自閉症スペクトラム障害当事者による社会運動から発し、日本においては障害者雇用の文脈において認知が広まりつつある。

 世界的には、アインシュタインはじめエジソンやらイチローやら藤井聡太やら、天才の多くは自閉症スペクトラムの顕著な傾向を有しつつ、いわゆる凡人を遥かに超える生産性を〈潜在的に〉有するとして、大企業が積極的に雇用し成果を上げた例が紹介されるなど、(金儲けの道具として?)注目されている。

 

 生物の進化の歴史に学べば、均一性の高い種は、短期的には高い勢いを保つものの、天災や疫病などアクシデントに弱く、長期の存続が難しい。

 

 ヒトにおいて、性別、人種などの表層的多様性よりも、組織の生産性を左右するのは、人の考え方や視点、知的な理解に関する認知的多様性である。いろいろな考え方、ものの見方を持つ者同士が協働することで、1人では考えつかないようなアイデアや困難への対応策が生まれる。同時に、そこには高い心理的安全性が求められる。

 

 異なる考え方や視点は、相互の否定や排除の原理を生み出しやすい傾向があるからである。

 ここまでは組織経営に携わる人なら誰でも容易に考える。問題はその先だ。わたしは昔から、組織や社会を進化(ある意味、壊す)させるのは自閉症スペクトラムの傾向を有する人による、すぐれた才能が組織や社会のニーズと合致した時であり、いわゆる普通の人たちは、その組織や社会を「守る」能力に長けていると思っていた。

 

 ちなみに、ASDという語が一人歩きしがちだが、「D」が付くのはディスオーダー、すなわち円滑な社会生活を送れないというのが条件である。能力のバランスが悪くても(一部分が突出していても)、社会生活に大きな支障がなければ自閉症スペクトラム“障害”ではない。

 

 問題の一つは、保守的な普通の人たちと、革新的な才能を持つ人が互いに尊重し合い、真に共存できるかということ。特異な才能を持つ人は、往々にして大きな組織に馴染みにくい。自分では「普通」と感じていることが、組織や世間ではそう受け止めてくれなかったりする。

 ひとは話せば傷つけ合わずに分かるほど、生易しい生き物ではない。だけど、関わることを諦めてしまっては、共存はますます遠い。

 

 次の問題は、自閉症スペクトラムの傾向を有する人で、好きなこと、得意なことが組織や世間のニーズに合致する(都合の良い)天才は、そんなにたくさんいない。

 多くは、生き辛さに生涯苦しめられながら、サイレントマイノリティとして、自分の人生をまっとうすることが精いっぱいである。将棋の藤井さんなど、飛びぬけた才能があれば幸せだが、プロの棋士は全員が、子どもの頃から天才と言われてきた人ばかりである。

 それでも別格の強さを持つ藤井さんの前では、引き立て役にしかなれない。まして、○○が好きです、ちょっと得意です・・・という程度では、それを生業として活かす道すらほとんど今の世の中には無い。

 

 うちの息子も、わたし自身も、なんら突出した才能などはない。大組織が利用しようとする枠外である。

 蛇足だが、止まらない少子化傾向は、政治不信からの将来(日本の未来)への不安が一因であろうと思っている。

 

 そんなことを考えつつ、わたしは俳句中心の生活である。俳人は世の中にコミットせず、世の中を変えたりしない。旅人と似たようなものである。

 

「道具屋筋」にある暖簾専門店。桜の時期は来週である。

 

暖簾屋に招き入らるる桜東風