バレーボールの石川祐希はストイックと言われるが、ちょっと違う気もする。毎日毎日自炊でニンジンとパプリカとブロッコリーを食べているのは、すべてバレーのパフォーマンスのため。

    メジャーリーグの大谷翔平も、お金はあり余っているはずだが、パスタに塩をかけて食べている。二人が味覚音痴なのかどうかは知らないが、食事は栄養補給と割り切っている。

    共通しているのは、自分がやらなければならないことにだけに興味関心を集中して、ほかを捨てても惜しいという感覚が無いこと。

    言い換えれば、自分が一番好きなことに悦びを集中できる。将棋の藤井聡太なども、一芸に秀でる人は、もちろんそのこと自体の才能に恵まれているのだろうが、それ以上に、努力する才能というのは、それ以外のことを捨てて我慢するという感覚が無いことではないか

    ここから発想を拡げて、僧侶の生活を考える。もろもろの欲を断って精進せよと言われても、簡単ではない。
    そもそも何のために欲を断つべきなのか。解脱への渇望は、きっと生き辛さが根っこにある。
    ゴータマシッダルタだって、子どもの頃から生き辛さを痛切に感じていたからこそ、それから逃れるために六年間の苦行に耐えた。

    ということは、生き辛さに苦しめられている人は、何か好きなこと、夢中になれることを一つだけ見つけられたら、それ以外をどんどん縮小したり切り離したりしていけば、他人と比べられて、他人に価値を決められたりせずに、今生きていることの歓びを強く味わえるのではないだろうか。

    それが見つけられないから仕方なく受験勉強したり、友人と思いたいグループの中で空気を読みながら振る舞うのにすり減る人が多いのだろうけれど。

    生き辛さが高じて自分の命を絶つ前に、「それ以外のことはどうでも良いくらいの、たったひとつのこと」にのめり込んでみるというのはどうだろう。

    昔から思っていたが、この世のあらゆることは、お金にならなくても有名にならなくても、とことん突き詰めてゆけば、命がけでのめり込む価値がある。そう信じ切れないから、ちょっと壁にぶつかったら迷いが生じて他に目移りしたり諦めたりしてしまいがちだが、自分の値打ちは自分で決めるという信念さえあれば、犯罪にならない限り何をしても一つの人生として意味のあるものになるだろう。

    バランスが悪くて世渡り下手で迷ったり挫けたりしてばかりの生き辛い人こそ、自分にとって大したことの無いものをすっぱり捨てることができて、本当の意味で生きている悦びを掴めるんじゃないだろうか。言葉ではなく、命の大切さを本当に教えてくれたのは、先立った家族なのだから。

    写真は、先日の吟行の際に見かけたブロッコリー🥦。冬の季語である。
摘み了へて葉の深々とブロッコリ

    わたしが生まれた頃は、男性の平均寿命(0歳の平均余命)は65歳だった。100歳まで生きなきゃいけないなんてとんでもない。何事も別に平均でなくて良い、というか平均なんて意味が無いと思ってるけれど、矛盾してる表現だけど、元気なうちにサヨナラしたいな。

    量子物理学と相対性理論を矛盾なく統合する仮説のひとつとして、今注目されているのが「因果集合理論」である。
    一言でいうと、「宇宙に始まりはなく、過去が無限に続いている」ということらしい。
    それってつまり、永遠ってこと?未来は無くても過去はあるってこと?

    よく分からないけど、多分あと数年もすれば量子コンピュータや汎用AIなんかを活用して研究が深まって、時間とか空間とか、命とかあの世とかの真実が、もう少し明らかになるんじゃないかと期待している。

   大阪万博(命輝く未来社会ってのがスローガンらしい)なんて、本当にどうでもいいから(維新が利権の汁を吸うためにカジノやりたいだけだろ。東京五輪よりもさらに失敗することは火を見るよりも明らか。)、命とか未来について、真面目な研究にお金や人材をつぎ込んでほしい。