昨夜は中秋の名月。長男が旅立ったバルコニーから、雲間に浮かぶ満月を眺めていた。

 満月?

 神戸の月の出は18時28分、満月度99.8%。

 19時01分に満月度100.0%になるのを待って写真を撮る。

 ということは、「本当の満月」でいられる時間はわずか十数分ということになる。

 人生もそんなものかもしれない。

 

 高村友也(ツイッター名は寝太郎)の「存在消滅」を読んだ。

 内容は「死ぬのが恐くてたまらない」というだけのものである。

 彼は小屋暮らしブーム(?)の火付け役として、その世界では有名である。「スモールハウス」、「Bライフ」などの著書は、生き生きとした遁世ハウツー本として気楽に読める。

 

 東大で哲学を学んだのも、幼少時の恐怖体験「自分はいつか必ず死んで、永遠の無になってしまう」という、解決できない呪縛からもがくためであった。当然頭では、ウィトゲンシュタインなどが言う「わたしの死は存在しない」という説も分かっているが、宗教などはもってのほか、何をしていても自分の死に対する恐れから抜け出せない。唯一それを忘れて自分が人と(世界と)一緒に在ると実感した瞬間が、駐輪場で誰かが自転車を将棋倒しにしそうになった時に、反射的に止めてあげたという、どうということのない経験の時だけだったというから、悲しい。

 

 彼は、ひとを愛したことがなく、深く信用したこともなく、ひとを愛することができないのだなと思った。それは知能とか金銭とかではどうにもならない。いろんな経験も、愛に収束していかない。満たされることのないかなしみを抱えて、今40歳くらいだが、あと何十年か生きていくのだろう。

 魂の存在など信じられないムームー族のひとつの典型である。

 

 満たされないことを、エネルギーに変えて頑張れるひとは、理屈抜きですごいと思う。ただそれは多くの場合、自分の中だけで閉じ完結しているので、誰かを幸せにすることとは必ずしも関係しない。

 人の頑張りを見て「元気をもらった」というのは、一見開かれているようにも見えるが、交流としては疑似相互性であり、厳密には一方通行である。ただ、これは悪いことではない。死者との対話もそんなものだからである。

 

 スポーツの世界など見ていると、全盛期を明らかに過ぎて、もう大して活躍できないのに、潔く引退しない選手が目に付く。決して非難しているわけではない。みな、全盛時の自分を基準にしてしまい、結果が出なくても「まだやれるはず」という呪縛から、苦しい練習を止められずにいる。

    金のこととか見栄とか、本当は辞めたいのに辞めさせて貰えない圧力があるのかもしれない。


 引退した選手のことばでよくあるのは「気持ちが付いていかなくなった」というものである。その点では、遺族は愛する人がいなくなった時点で、自分が生きるために努力しようというモチベーションが断たれている。わたしも誰かに(見かけ、数字上で)負けても、悔しいとか次は必ずとか、ほとんど思わなくなった。その意味では、もう今生は引退相当だろうとも思う。

 

 まだあまり広まっていないが、スポーツの世界で引退をメンタル的にサポートする動きがある。これはとても大事な、普及してほしい分野である。自死遺族のサポートともかぶる部分があるのではないか。

 

 リアルライフは充実していようがいまいが、そのうち終わる。どうせ終わるなら、早めの方が良いという気持ちは捨てられないが、自分で決められないなら、満たされるとまではいかなくても、なるべく嫌な思いは少なめで過ごしたい。

 誰かと関われば、必ず不全感とか不満、傷ついたり人を傷つけてしまったりして、時に不快感も伴うのだが、それでもほんの小さなことでも、「誰かのために頑張った」という経験や思いがあれば、自分がこの世を去るときに満足感につながるのではないだろうか。


    ただ、人のために行動する際に、見返りを求めてしまう気持ちが捨てきれない。自己肯定感の向上とは、なかなかに難しい課題である。


    「○○している時の自分が好き」、というのは「そうでない時の自分は嫌い」という自己否定と裏表なので、自己肯定感には繋がらない。それはたんなるナルシシズムに過ぎない。だからわたしは、自分にご褒美をあげるために頑張るというやり方がとても嫌である。


    本当に自己肯定感が高い人は、いつどこで何をしている自分でも、そのまま受け入れることができる。

    そんなことを考えていたら、わたしが長男を無条件で認めることができたのは、彼がいなくなってからだったという悲しい事実に気づいた。


    亡き子のためという理由なら、最初から見返りを求めることがないので(本当は若干あるが)、余生の充実のためには用いやすい考え方だろう。

 

 そんなことを思いながら、今日も月を待つ遁世の日々である。


    長男が保育園の時、今夜はお月見だねと言って、団子を供え、手をつないで近所にススキを探して歩いた夕暮れ時の思い出は、わたしがこの世にいる限りは決して忘れない。