政治の話をするのは、本当は面倒くさい。

 安倍信者のヒトと話し合っても分かり合える気がしないから。

 「日本を強くしたい」と願う気持ちは分からなくもない。

 ただ、そのやり方が衆愚支配、弱者搾取を前提としているのが容認できない。

 万人が納得する政治なんてありえない。だから、妥協できるギリギリのバランスを探るのが政治家の役割だろう。玉虫色のきれい事しか言えない時もあるだろう。

 ひとことだけ言うとしたら、「保身のためのウソで固めた政治家は信用しない。」

 

 ちなみにわたしが長年勤めた職場は、上層部が日本会議と繋がっている。右翼のど真ん中である。

 しかしなぜか、組合は共産党系で、わが家も何年か赤旗を取っていた。

 アメリカもロシアも、為政者は税金で私腹をこやし、親族友人を王侯貴族として厚遇している。それは古今東西繰り返されている事実(習慣としての事実。権力の副産物)であり、日本だけ例外、清廉潔白などということは絶対にあり得ない。

 投票は、その政治家、その政党に服従するという意思表示だから、投票しない権利もあってよいとは思うが、システム上、投票率が下がるほど多数派がのさばることになる。 

 

 大臣なんて、面の皮が厚ければ誰でもできるんだから、裁判員みたいに無作為抽選で決めたらどうか。

 

   宗教の話をするのも、とても面倒くさい。わたしは高校時代からゴータマシッダルタのファンであるが、あの人は宗教家というより哲学者だろう。

 宗教の話がうっとうしいのは、権力(個人に対する支配を含む)とか、運営にまつわるカネの話が必ずまとわりつくことと、そもそも「信じる」ことそのものが、そこから先の思考停止を強要する点にある。

 

 自死遺族はかなしみにとらわれて思考停止しがちであるが、かなしみから脱却するためになにかにすがりたくなる。そこにつけ込もうとする営利宗教は許せない。

    

 

    予想通り選挙も自民の圧勝に終わり、コロナ禍が一段落したら改憲の流れが加速するに違いない。今のところ公明党頼みという情勢は、はなはだ心もとない。

 個人的には、国民投票は充分論争の期間を設けた上でしたらいいと思う。

 「国民投票法」が成立した瞬間から、ああこれで9条も終わったなと思った。

 だって、有権者の半数ではなくて、有効投票の半数で憲法が変わってしまうのだよ。みんな、分かってるんだろうか?

 仮施行とか、できないんだろうか。

 改正に○を付けた投票者から優先的に、本人や家族親族を徴兵するというシステムにしたらどうか。

 

 

    安倍氏賛美の人達が意外に多い(ように見せるメディアの編集か?) が、アメリカ(主に地方)で今も4割の人がトランプ支持なのと似たようなものだろう。

 

    どこでも単純な分断構造が一向に改善されないのは、共感性の問題もあるが、緻密に考えて悩むこと自体がしんどいという時代の空気も影響しているのかもしれない。

 

 

    日本の未来は暗いというか、もうほぼダメであるが、国民をとことんバカにし一部王侯貴族気取りの大政翼賛会、大東亜共栄圏の感覚で、政治に期待するなというサブリミナルメッセージをボディーブローのように継続することによって、国民(主として無党派層を対象)の政治に対する関心を削ぎ、政権の維持拡大を図る巧妙かつ周到な戦略は、安倍氏の一番の功績である。

 

   マメに宗教団体に対し社交辞令で持ち上げ手懐け、票を確保していた手口は、ある意味お見事である。

 

    わたしの感想としては、たとえ個人的には思想信条や行動、その結果について大嫌い、許せないと思っても、それで暴力によって命を奪って良いとは思わない。志半ばでさぞ無念であったろうと思う。

 

    ただ、(票やカネ欲しさで)特定の宗教団体に肩入れするということは、必ず敵を作り、想像以上に恨みを買うおそれと抱き合わせであるという覚悟が必要だろう。

 

    いまだに「弱いからいじめられるんだ」(弱いことはダメ。)などと平然と口にする老人が政権の中枢にいること自体、弱者と共存しようなどとはなから念頭にない、それがこの国の生きづらさの本性であり、大多数の「フツウの人たち」の本音なのであろう。

 

 宗教団体の組織票が選挙に大きく影響するのは事実である。(ちなみにわたしの今の菩提寺住職は、日蓮宗の過酷な修行を完遂した方であり、創価学会に対しては、ものすごい嫌悪感を隠そうとしない。)

 

    今回の事件の背景にあるのが統一協会と聞いて、長男のことが浮かんだ。

 下北沢に下宿中、妙な書物が置いてあるのを見つけ、問いただすと、高田馬場の路上で勧誘されたのだという。正式入会をためらっている状況だったので、やや感情的に諭して、入会しないよう説得した。書物をスカウト?に返すのが恐いというので、付いていった。別に何ともなかった。

 

 帰依してしまえば、ラクになれたかもしれないが、髪の毛一本にいたるまでむしり取られたかもしれない。

 宗教は本来、ひとを生かすものだと思うのだが、ひとをあやめもする。

 

 長男と前後して自死した(いまだに信じられない)わたしの従姉は、また別の新興宗教の信者だった。

 その団体を悪く言うつもりはない。困っている人たちに居場所や職を与えている事実も、わたしの仕事を通じて知ったからである。ただやはり、寄付とかに関しては首をかしげることがあった。

 

 現実にお金や居場所がなくなれば、社会やヒトを恨んでしまいがちになるだろう。本当はあるはずの居場所が見えなくなってしまうこともあるだろう。

 自分にできることをやると言うのは簡単だが、実際は非常な勇気や覚悟がいる。

 

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 先日、運転免許を更新できた。

 個人的には、もうそれほどクルマの運転に執着はない。

 ただ、長男は本当にあと一歩のところ(残すは卒業検定だけ)で免許を取得できなかった。

 そして教習所の帰り道にスマホを落としたことで絶望し、命を絶った。

 

 正午ごろから2時間ほど自宅と教習所の間を自転車で血眼になって探し回り、

 午後2時頃に市の警察署に自転車で行って、遺失物届を出して、

 パソコンからツイッターで呼びかけて、

 午後3時過ぎに父ちゃんのスマホに最後に掛けて、わたしが仕事中で出てやれなかったので、すべての希望を失い、

 午後4時頃にこの世を去ったのである。

 

   わたしは長男のスマホを拾って横領した人を許す気は無い。実際に会ったら自分を抑える自信が全くないので、会いたくはない。

 

 そんなことがあるので、わたしは車を運転するときには長男が運転しているつもりで乗っている。

 だから、今回免許が更新できて嬉しかった。

 

 

    写真は次男が住んでいる山村シェアハウス前に咲いているネムの花。優しげに夢見るようにふわふわと咲いている。

幸せは後から気付く合歓の花
あの山の彼方にきっと合歓の花