夏至の候といえば、わたしにとっては母の命日である。
わたしが一度目の喪主になった日は、どしゃぶりの雨だった。
昭和に生まれ、昭和に他界した母のことを、この世で直接覚えている人は少なくなってきたので、書き留めておきたい。
母はそんなにヘンな人ではなかったと思う。気が強くて多少ヒステリックな面はあったが、病的な部分は感じなかった。愛情深い人だったかは、よく分からない。生まれたばかりのわたしを置いて、山村からひとり大阪に出てきてタイピストとして生計を立てながら文学学校に通うような人だった。わたしが母と同居したのは幼稚園に入る時だった。
母がなぜ父と結婚したのかは聞いたことがない。もちろん離婚理由も。父はもともとおかしな資質を有していたと思うが、従軍経験と戦犯としての長い服役期間が、そのおかしさを増幅したのだろう。なのでいっそう、釈放後の父のどこに惹かれたのか、不明のままである。
男運は悪かった。最初の夫がどんな人かはまったく知らない。わたしが相続のために戸籍謄本を取って、初めて二度離婚していることを知ったくらいである。わたしの父のことも一切話さず、写真の一枚すらなく、そのあたりは徹底していた。
わたしが小学校4年になると同時に、タイピスト内職から、大きな病院の事務に就いた。その前後も、彼氏か何だか分からないが、何人も男性が変わった。無断外泊などはしない人であった。
母は一見世話好きで、初対面の人とも物怖じせずによくしゃべるので、わたしはおばちゃんという人種が苦手だった。今から思えばこれも、処世術のひとつだったのだろう。
(ちなみに今のわたしはおばちゃんが好きで、おねえちゃんが苦手である。)
わたしが小学校6年の時に、3人の大きな子連れのじじいの内妻になり、否応なしにわたしも付いていった。中学卒業までの3年半は、とてもきつかった。毎日毎日じじい死ねと思いながら暮らした。母もすぐに後悔したようだが、お金もなく、なかなかすぐには逃げ出せなかった。結局、母は男を見る目が全然なくて、何度も何度も失敗を繰り返した。そういう面がわたしに遺伝しているかどうかは何ともいえない。
わたしが高校に入った頃からの約10年間は、俳句や書道に打ち込み、貧乏ながらも幸せな晩年(45歳~54歳)だった。親子の会話とかはあまりなかったが、居るのが当たり前という感覚だった。わたしは大学を出るまで、家の用事などほとんど何もしたことがない。母は誰かに尽くすことで、自分の存在意義を確認するタイプの人だったのかもしれない。だからいわゆるダメンズとくっついたのか。
わたしが就職して家を出たので、それこそ好きなように生きてくれれば良かったが、54歳でガンになり、8か月の闘病で2度の手術をしたが既に手遅れだった。結局勤務先の病院で息を引き取ったのである。母方祖母より2年早かった。
今生きていれば89歳。口うるさいタイプなので、わたしの妻とは合わないだろうなと思う。孫に対してはどうだろう。きっと必要以上に甘やかしたに違いない。
母の句は、確かに都会的センスを感じる句がある。
ビルの間の虹の片脚仰ぎをり
住み馴れて海見ぬ日々や立葵
写真は庭のユリ。植物判定アプリではハカタユリと出るが、奄美大島土産の球根を植えたら何もしなくても伸びて花開いた。
母の忌に開く百合にて剪りあぐむ